法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2005年7月〜12月分
 
 
2005年7月発行 掲載分
 
 

メメント・モリ(ラテン語「死を想え」)

 以前は全く感じなかったのですが、最近自分が先人の有形無形の「遺産」の中で生きていることを実感する機会が増えてきました。
(これも私がひと歳とったせいかも知れませんが……)

 「遺産」と言うと私たちはすぐにお金や土地・家屋といった「形のあるもの」を連想しますが、決してそればかりではなく、故人が遺してくれた「形にならない」言葉や思い出も、それに勝るとも劣らない大切な遺産ではないでしょうか。
 そしてそれらの遺産は知らず知らずのうちに自分を導いてくれる。
 何かの岐路に立った時には助けとなってくれる。
 そういうものではないでしょうか。

 私は自分を可愛がってくれた祖父母のことを心温まる思い出として今も覚えています。
 けれどその2人の「死」と出遇ったという体験もまた、それに劣らず、今の私にとって大きな「財産」になっていると思います。

 4歳の時の祖父の死はやがて

「人は(自分は)いつか必ず死なねばならない」

ことを私に気づかせ、

「死んだらどうなるのか」

 さらには

「いつか死を迎えるこの人生を自分はどう生きればよいのか」

といった「問い」を私に与えてくれました。

 90歳を越えて亡くなった祖母は私に

「老いるとはかくも悲しく、生きるとはかくも厳しいものなのか」

とあらためて教えてくれました。

いずれも私が真宗の僧侶として生きる上での、親鸞聖人の教えを尋ね求めていく上での大事な課題となっています。

 話は変わりますが、ここ数年6月になると毎年のように凄惨な事件が、それも学校を舞台に起きています。
 10日には山口県の県立光高校で男子生徒が授業中の教室に火薬ビンを投げ込み同級生数十名に怪我を負わせた事件が起きていますし、30日には高知県の明徳義塾高校で授業中に男子生徒が同級生にケンカを吹っかけ事前に準備したナイフで相手を刺す事件が起きました。
 この他にも子供同士が殺し合う事件が連日報道を賑わしました。

 事件が起こるたびに、TV・新聞等ではさまざまな議論が展開されます。
 戦後教育のひずみ、少年法の改正……。
 また滅多に報道に現れることはなくても、地域や学校で「命を大切に」と、さまざまなイベントや試みが導入されています。

 しかし、それら関係者の必死の営みを嘲笑うかのように、悲しい事件は後を絶ちません。
 報道を通してそれらを知る私たち自身も、もはや驚くことすら忘れ、「またか」という虚しい思いにとらわれるばかりなのです。

 「命を大切に」という大人たちの叫びがなぜ子供たちの耳には届かないのでしょうか。

 『納棺夫日記』の作者である作家の青木新門氏は、その理由について、

「本物の死を知らない。
 大切な人の死に出会ったことがない。
 死別の悲しみを知らないからではないか」

と語っておられます。

 青木氏によれば、東京都が公立の小学5年生から中学1年生を対象に調査したところ、「誰かのお葬式に行ったことがありますか」という質問に対して「ある」と答えた生徒が65パーセント。
 「おじいちゃんやおばあちゃんの臨終の場に立ち会ったことがありますか」という質問に対して「ある」と答えたのは全体のわずか5パーセントだったそうです。
 つまりほとんどの子供は葬儀にこそ出るけれど、その死に目に逢ってはいないのです。

 もちろん世代間の別居によって祖父母と離れて暮らしているという事情もあるでしょうが、親たちが積極的に死に目に逢わそうとしていない、むしろ遠ざけようとしている現実が浮かび上がってきます。

 青木氏は、大人社会が死を隠蔽してきた結果、子供たちは死を観念でしか、頭の中でしか考えることができなくなってしまっているのではないか、として 「神戸児童連続殺傷事件(」1997年)の犯人であるいわゆる少年Aが取り調べの際に

「君はなぜ人を殺そうなどと思ったのですか」

という質問に対して答えた言葉を挙げられました。

「僕は家族のことなんかなんとも思っていなかったんですが、おばあちゃんだけは大事な人だったんです。
 そのおばあちゃんが僕が小学生のときに死んでしまったんです。
 僕からおばあちゃんを奪いとったのは死というものです。
 だから僕は、死とは何かと思うようになったのです。
 だから僕は、死とは何かとどうしても知りたくなり、最初はカエルやナメクジを殺していたのですが、その後は猫を殺していたのです。
 猫を何匹殺しても死とは何かがわからないので、やはり人間を殺してみなければわからないと思うようになっていったのです」

 彼もまたおばあちゃんの実際の死に立ち会ってはいなかったそうです。

 そう言えば、昨年長崎県佐世保市 で同級生を小学校内で殺害した女児が取調べ中に

「○○ちゃん(死亡した友達)に会ったら謝りたい」

と語ったと伝えられました。
 それを伝えるニュースには

「もしかしたらこの子は人が死ぬということがどういうことなのか理解できていなかったのではないか」

という誰かのコメントが添えられていたように記憶しています。

 そしてそれと比較対照する形で青木氏は、実際に祖父の死に立ち会った(少年Aと同じ)14歳の少年の作文を紹介されました。
(亡くなったおじいさんが死の1週間前から親族17人を自分の枕辺へ呼び寄せ、孫たちには学校を休ませまでして、自分の死に様を見せて亡くなっていかれたのだそうです。)

「僕はおじいちゃんからいろいろなことを教えてもらいました。
 特に大切なことを教えてもらったのは、おじいちゃんが亡くなる前の3日間でした。
 いままでテレビなどで人が死ぬと周りの人がとてもつらそうに泣いているのを見て、何でそこまで悲しいのだろうと思っていました。
 しかし、いざ僕のおじいちゃんが亡くなろうとしている側にいて、僕はとてもさびしく悲しく、つらくて涙が止まりませんでした。
 そのときおじいちゃんは、僕に本当の人のいのちの尊さを教えてくださったのだと思います。

 それに、最後にどうしても忘れられないことがあります。
 それはおじいちゃんの顔です。
 それはおじいちゃんの遺体の笑顔です。
 とてもおおらかな笑顔でした。
 いつまでも僕を見守ってくださることを約束しておられるような笑顔でした。
 おじいちゃん、ありがとうございました。」

 このおじいちゃんは自らの死をもって、文字通り命を懸けて、死とは何か、肉親と死に別れるとはどういうものであるか、本当の人のいのちの尊さとは何かをこの少年に教えて下さったのです。

 いつか終わりが来るからこそ、一度喪われてしまえば二度と取り返せないからこそ命は大切であり、かけがえのないものなのではないでしょうか。

 青木氏は直接には「命を大切に」というスローガンを連呼しながら、それを伝える場を奪っている大人社会を批判しておられますが、実は大人たち自身が「命の大切さ」―それは現実の死と切り離して考えても決してわからない―を本当にはわかっていない―だから死を隠し遠ざける―という虚偽・欺瞞への批判も込められているのではないでしょうか。

 寺川俊昭先生は、今から40年程前、ある証券会社の社長さんが卒業・就職目前の高校生に対して、「就職の心構え」という講話の第一声に発せられた言葉を今も覚えておられるそうです。

 その講師はこれから社会に巣立っていく若者たちに向ってこうおっしゃったそうです。

「みなさんは南無阿弥陀仏という言葉を知っていますか。
 人間は必ず死ぬんですよ。
 自分が死ぬということを計算に入れないような人生観は全然信用することはできません」

 この

「南無阿弥陀仏という言葉を知らないで自分はまともな人間であると貴方は言えますか。
 人間は死ぬのだ、しかも自分が死ぬのだということを真剣に考えたこともないようで一人前の社会人として生きていけますか」

という講師の親切な、本当に親切な言葉を、先生はご自身にとっての大切な呼びかけとして、今も時折思い出されるそうです。

(「西念寺婦人会だより」2005年7月号掲載)

〈参考文献〉
寺川俊昭『往生浄土の自覚道』(法蔵館・2004)
青木新門「現代の闇を破りうるか」(『現代と親鸞』第8号掲載(親鸞仏教センター・2005))

〈参考ウェブサイト〉=クリックでジャンプできます=
『ポチの人生ひとり言』

 
 
 
2005年9月発行 掲載分
 
  いのちのバトンタッチ
              より深い「絆」へ 

 前号で私は、祖父の臨終に立ち会った14歳の少年の作文を紹介しました。

「僕はおじいちゃんからいろいろなことを教えてもらいました。
特に大切なことを教えてもらったのは、おじいちゃんが亡くなる前の3日間でした。
いままでテレビなどで人が死ぬと周りの人がとてもつらそうに泣いているのを見て、何でそこまで悲しいのだろうと思っていました。
しかし、いざ僕のおじいちゃんが亡くなろうとしている側にいて、僕はとてもさびしく悲しく、つらくて涙が止まりませんでした。
そのときおじいちゃんは、僕に本当の人のいのちの尊さを教えてくださったのだと思います。」

 学校で、家庭で、テレビで、新聞でと、当節「命の大切さ」が語られない場所はありません。この少年にしてもまた然り。いろいろな場所で耳にし、彼自身もまた口にする機会があったかも知れません。

 にもかかわらず彼はここで「『本当の』人のいのちの尊さ」という言葉を用いています。

 「本当の人のいのちの尊さ」。それはもしかしたら大切な人との別離、その悲しみを通してしか学びとれないものなのかも知れません。
 そして人はその悲しみを通して自らもまた限りある命を生きるものであることの自覚と、自らの生を愛する自重の思いとを養っていくのではないでしょうか。

 それらはこの子のお祖父さんが死をもってこの子に教えて下さったものなのでしょう。

 しかし、お祖父さんが「命懸け」でこの子に伝えたものはそれだけではありませんでした。

 実はこの作文はこれで終わりではなく、後半があるのです。

 彼はお祖父さんが亡くなった後、その「死に顔」を見てこんなことを感じているのです。

「それに、最後にどうしても忘れられないことがあります。
それはおじいちゃんの顔です。
それはおじいちゃんの遺体の笑顔です。
とてもおおらかな笑顔でした。
いつまでも僕を見守ってくださることを約束しておられるような笑顔でした。
おじいちゃん、ありがとうございました。」

 おそらくこの少年はお祖父さんのことを大変尊敬し、また大好きだったのでしょう。

 大好きな祖父と二度と会えなくなる寂しさ、辛さの中で、彼は「いつまでもお前を見守っている」というお祖父さんからのメッセージを受け取っているのです。

「私はお前を見ている。
 いつでもお前と共に居る。
 お前は決して一人ぼっちではない」

 「肉身」の祖父との別れを通して、彼は言わば自分と共にある祖父、自分の中で生き続ける祖父と出逢ったのではないでしょうか。

 進学、就職、結婚……。1人の人間として生きていく上で、このお祖父さんの「約束」が彼にとってどれほどの支え、励ましとなっていくでしょうか。

 ある人が

「人間にとっての本当の死とは肉体の死ではない。
 残された人がその人のことを忘れた時、人は本当に死んでしまうのだ」

と語るのを耳にしたことがあります。

 悲しいかな、人は忘れる生き物です。
 当初の身を切られるような悲しみも時が経てば少しずつ薄れ、故人を思い出す時間も少しずつ減っていかざるを得ません。

 しかし、だからといってそれが即故人を「忘れた」ことにはならないのではないでしょうか。
 愛別離苦の悲しみを経て、むしろそこから新しい関係が始まっていく。より深い関係へと変化していくのではないでしょうか。
 その人の存在が、その人が存命であった時よりももっと深いものとなって、私という存在の奥深くから私を見守り、励まし、私の人生そのものを支えるものとなっていく。そういうこともあるのではないでしょうか。

 もちろんそれは両者の間に深い、確かな心の交わりがあったということが大前提です。

 先立っていく人には「このままただ消え去りたくはない」「何かを残したい」「自分のことを忘れないで欲しい」という思いがあり、残された人には「あの人ともう一度会いたい」という思いがあります。

 双方の思いが満たされる「場所」、生者と死者とが出会える「場」、それが見出された時、悲しみは悲しみのままとして、両者の間に新しい絆が生まれてくるのではないでしょうか。

 一般的に言えば、お墓やお仏壇の前、あるいは思い出の場所などが具体的な意味でのそれに当たるのですが、私たち真宗門徒には、ある一つの「言葉」、「南無阿弥陀仏」という言葉をその出会いの場所としてきたという伝統があります。

「私は死んだら「南無阿弥陀仏」という名の仏になる。」

 これは藤代聡麿先生が晩年肉親に語られた言葉だそうです。

「私はいままで「生きとし生けるもの(一切衆生)をむなしく生死(しょうじ・迷い)の世界にとどまらせない。必ず私の国(浄土・さとりの世界)に生まれさせたい」と誓われた阿弥陀の願心に感動し、まさしく私のために起された願だと信じ、仰ぎ、その名を称(たた)え伝えてきた。
 私は死んだ後、個人の思い、個人の存在や名前を超えた大いなる阿弥陀の「願い」、阿弥陀の「名」と一つになって、縁ある人々を見守り、寄り添い、その生を根源から支え励まし導きたいのだ」

 私はこの言葉から、先生のこのような切実な思いを感じざるを得ません。

 次に紹介する「私は」という詩。これは乳ガンのため亡くなった北海道の坊守故鈴子章子さんが、転移によって左肺を切除した後、転々移を告知された翌日の早朝に作られたものです。

   私は

 私は真弥の南無阿弥陀仏になります
 私は啓介の南無阿弥陀仏になります
 私は慎介の南無阿弥陀仏になります
 私は大介の南無阿弥陀仏になります
 私は真吾さんの
 南無阿弥陀仏になります
 私はおばあちゃんの
 南無阿弥陀仏になります
 私は道子ちゃん 重ちゃん
 文ちゃん 兄ちゃんの
 南無阿弥陀仏になります
 私はもっちゃん おばさんの
 南無阿弥陀仏になります
 ワーさん アーちゃん 岡ちんの
 南無阿弥陀仏になります
 羽広のおじさん おばさんの
 南無阿弥陀仏になります
 田中先生の南無阿弥陀仏になります
 門信徒の方 有縁の方々の
 南無阿弥陀仏になります
 思い出したら
 南無阿弥陀仏と呼んで下さい
 私はいつもあなた方に南無しています

 近い将来間違いなく訪れる死を前に、鈴木さんは四人のお子さん(慎介くん・大介くん・啓介くん・真弥さん)を始めとする有縁の人々に「私はあなたの南無阿弥陀仏になります。私を思い出したら南無阿弥陀仏と呼んで下さい」と遺言するのです。(この三ヵ月後に鈴木さんは亡くなります。)

 鈴木さんはまた、同じ日の朝にこんな詩も作っておられます。

   私はお母さん

 慎介 大介
 啓介 真弥
 私はいつ迄も
 あなた方のお母さん
 南無阿弥陀仏の
 諸仏になって
 今度は
 あなた方を育てましょう
 慎介かわいい 大介かわいい
 啓介かわいい 真弥かわいい
 お父さんかわいい

 このように私たち真宗門徒には、「南無阿弥陀仏」を生者と死者の絆を繋ぐ言葉として伝えてきた歴史があるわけですが、冒頭の少年が「見守っているよ」というお祖父さんのメッセージを感じ取ったことも、実は同じ伝統の中から生じてきた出来事なのです。

 この少年の高校1年生の兄が、同じ祖父の死を次のように描いています。

「おじいちゃんが亡くなる朝、おじいちゃんがおばあちゃんに、「この後どうなるものかね」と言った。
するとおばあちゃんが、「ごいっしょに参りましょうね」と言った。
おじいちゃんは「ありがとう、ありがとう」と言いながら、「南無阿弥陀仏」と言って死んでしまった。
 そのときの光景は、いまもしっかりと脳裏に焼きついています。
あの光景は、とても言葉では言い表せるものではありません。
これからは、おじいちゃんに毎朝お念仏を称えさせていただきます。
それは、僕がいまできる唯一のことだからです。
おじいちゃん、いままでありがとうございました。」

 「この後どうなるものか(どこへ行くのか、一人ぼっちで死んでいくのか)」という祖父の孤独と不安に「ご一緒に参りましょう(必ずお浄土でお会いしましょう。南無阿弥陀仏)」と応え励ました祖母。
 その祖母に「ありがとう。南無阿弥陀仏」と感謝して逝った祖父。
 死にゆく祖父と残される祖母との間の、南無阿弥陀仏を通して結ばれた深い心の絆。

 おじいちゃんが彼に「念仏しろ」と遺言したわけではありません。
 彼自身にせよ南無阿弥陀仏の詳しい道理を理解できているわけでもないでしょう。

 にもかかわらず祖父の死の情景に根底から揺り動かされて、彼は念仏を選び取ったのです。

 この経験を通して彼と祖父、彼と祖母の間にも念仏による絆がしっかりと結ばれたのです。
 念仏とはこのようにして相続されるものなのでしょうか。

 人の死をめぐるさまざまな問題が念仏の伝統の中ですでに答えられている。
 その事実を前に、私は正直驚きを隠し得ないのです。

(「西念寺婦人会だより」2005年9月号掲載)

〈参考文献〉
鈴木章子『癌告知のあとで』(探求社・1989)
小澤竹俊『苦しみの中でも幸せは見つかる』(扶桑社・2004)
青木新門「現代の闇を破りうるか」(『現代と親鸞』第8号掲載(親鸞仏教センター・2005))

※南無阿弥陀仏の諸仏

 「南無阿弥陀仏」の名を称(となえ)て阿弥陀の徳を誉め称(たた)え、あらゆる衆生に聞かしめる存在を「諸仏(しょぶつ)」と言う。
 『大無量寿経』下巻の「十方恒沙(ごうじゃ)の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆(さんだん)したまう。」の文(いわゆる「諸仏称名の願成就の文」)を根拠とする。

 
 
 
2005年11月発行 掲載分
 
 

「お念仏の日暮らし」

これ経教(きょうぎょう)はこれを喩うるに鏡の如し、
しばしば読み、しばしば尋ねれば、智慧を開発(かいほつ)す。

                               (善導『観経序分義』)

自分のことは自分で見えんもんや。
自分を見るときゃ如来さんの眼(まなこ)いただかんと見えんもんや。
                                                                           (山崎ヨン)

 今夏頂いた暑中見舞いの中にこんな一文がありました。

「おかげさまでお念仏の日暮らしをおくっております。」

 この「お念仏の日暮らし」という一句に私の眼が吸い寄せられてしまいました。
 「お念仏の日暮らし」とはどういう日暮らし(生活)なのだろうか、と。

 お念仏の日暮しとそうでない日暮らし、お念仏のある生活とない生活とは具体的にどう違うのでしょうか。
(まさかこの方が終日お内仏(仏壇)の前に座って、朝から晩までお念仏を称えてばかりいらっしゃるというわけでもないでしょうから。)

 そんなことを考えていた折、こんな記事を眼にしました。

 大阪で、日本人と在日韓国人に対してそれぞれ「あなたが自分の人生において大切にしているものを順番に3つ挙げてください」というアンケートを行ったところ、日本人の回答が 、

@健康 A財産 B家族

という順位であったのに対して、在日韓国人の回答は、

@信仰 A友人 B家族

という順位だったそうです。
 そして、「信仰」を第1位に挙げた人にその理由を尋ねたところ、

「信仰を持たなければ、私の間違ったわがままな生き方を、どうして直すことができるのですか」

という答えが返ってきた、というのです。

 この記事を読んで私は即座に聖徳太子御製作『十七条憲法』の「第2条」、

「篤く三宝(さんぼう)を敬え。
 三宝とは仏・法・僧なり。……
 それ三宝に帰(よ)りまつらずは、何を以(も)ちてか枉(まが)れるを直(ただ)さむ、と。」

の文を連想してしまいました。

 「枉(おう)」とは「木がまがる」、転じて「邪曲の人」、「くるう」という意味の字(諸橋轍次『大漢和辞典』)ですから、『十七条憲法』の文は言わばそのような「私の曲がった、間違ったわがままな生き方」もしくは「そのような生き方の私」を、特定の神に対する信仰ではなく、仏(教主釈迦)・法(その教法)・僧(教法を信奉し実践する仏弟子の集団)に帰依するという仏教の「信仰」を通してのみまっすぐに直すことが出来るという聖徳太子の仏教観を示すものです。

 ただ、「直す」という以上は、自分がどのように「間違っている」のか、どのように「わがまま」であるのかがよくわかっていなければなりません。
 しかし、他人のことはよく見えても、自分のことはなかなか見えません。
 自分は決して間違わない、間違っていないと思って暮らしているのが私たちです。

 私たちの眼は前しか見えないようになっています。
 自分自身の顔が見えるようには決してできていません。
 だからこそ私たちには「鏡」が、自分自身の姿を照らし映し出してくれる智慧の鏡、教えの鏡が必要なのではないでしょうか。

 日常生活でもし鏡がなかったら、自分がどんな顔や姿形で人前に出ているか省みることすら知らないとしたら、これはちょっと恐ろしいものがあります。
 文字通りの「恥知らず」として生きていかなければなりません。

 しかし、仏さまの眼から見れば、私たちは自分が鏡を持っていないことにさえ気づかないで、鏡の存在さえ知らないまま生きているのです。

「これ経教はこれを喩うるに鏡の如し、しばしば読みしばしば尋ぬれば智慧を開発す。」(善導大師『『観経疏』)

 「今月の言葉」で紹介したのは七高僧のお一人善導大師のお言葉ですが、教えとは何も紙に書いた字ばかりとは限りません。

 大阪のとあるご門徒のおばあさんはお仏壇の燭台に立てようとしたろうそくが何度立てても傾いてくるのを直しながら、

「このろうそくは何べんまっすぐにしてもすぐ倒れる。
 ウチの根性とよく似とる。」

とつぶやかれたそうです。
 ともすれば癇癪の種ともなるろうそくがこのおばあさんには図らずも自分の根性、「まっすぐでない心」を象徴するものに思われたのでしょう。

 宮城先生は斎場でお父上のご遺骨と対面なさった時、

「お前のやっていることをもう一回ここから見てみろ。
 忙しい忙しいと言っているけれども何が本当に忙しいことなのか。
 一回この俺の骨のところから見てみろ。
 考え直してみろ。」

という厳しい叱責が聞こえた気がした、と語っておられます。
 物言わぬ亡父の白骨が何よりも雄弁に語りかけ、自分の生き様の核心を厳しく衝いてくるのです。

 また、キリスト教の信者であった詩人八木重吉(18981927)はこんな詩を遺しています。

草に すわる

 わたしの まちがひだつた
 わたしのまちがひだつた
 こうして 草にすわれば それがわかる(詩集『秋の瞳』)

 何度立てても傾くろうそくや肉親の遺骨が言わば「鏡」となって、自らの有り様、生き方を照らし、「それでよいのか」と問いかけてくる。
 ろうそくや遺骨を通して教えの声が響いてくる。

 「この世の森羅万象、経文でないものはない」という趣旨の言葉が曹洞宗の開祖道元禅師にもあるそうですが、親鸞聖人はそれを、阿弥陀さまが森羅万象にまでなって、

「目覚めよ」
「わが身のありのままに眼を開け」

と智慧の光明(ひかり)で私たちを照らし呼びかけて下さっている、と教えていらっしゃるのです。

「この如来は、光明なり。光明は智慧なり。智慧はひかりのかたちなり。智慧またかたちなければ、不可思議光仏ともうすなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまえるがゆえに、無辺光仏ともうす。しかれば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となづけたまえり。」(『一念多念文意』)
「この報身より、応化等の種々の身をあらわして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまうゆえに、尽十方無碍光仏ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、無明のやみをはらい、悪業にさえられず、このゆえに 、無碍光ともうすなり。無碍はさわりなしともうす。しかれば、阿弥陀仏は、光明なり。光明は、智慧のかたちなりとしるべし。」(『唯信鈔文意』)

 形なき智慧が光明という形となって、さらにはさまざまな人や事物(応化等の種々の身)に化してまで、と。

 「お念仏の日暮らし」とは、日々のお念仏の中で、このような阿弥陀さまの智慧を言わば「鏡」と仰いで生きる生き方をこそ言うのではないでしょうか。

 前に私は「鏡」を持たない生き方は文字通り「恥知らず」な生き方だと書きました。

「「無慙愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす。
 慙愧あるがゆえに、すなわちよく父母・師長を恭敬す。慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。」

という『涅槃経』の言葉によれば、「鏡」を持った時、「自らを愧(は)じる」ことを知った時、初めて「人が人として生きる」ということが始まるのかも知れません。

「これ経教(きょうぎょう)はこれを喩うるに鏡の如し。」

 お釈迦様の教え、親鸞聖人の教えとは、言わば私たちの「ありのまま」を映し出す鏡です。
 私たちは自分で自分の姿を見ることは出来ません。
 あなたの人生に「鏡」はありますか?

(「西念寺婦人会だより」2005年11月号掲載)

〈参考文献〉
藤浪 龍「「教化」について」(『京都教区だより』第207号・2005年3月号)
宮城『東本願寺伝道ブックス 生まれながらの願い』(真宗大谷派宗務所出版部・1990)
松本梶丸『わが心のよくて、殺さぬにはあらず』(柏樹社・1991)
西山厚『講談社現代新書 仏教発見!』(講談社・2004)
 

※道元禅師『正法眼蔵』

「いはゆる経巻は、尽十方界これなり。経巻にあらざる時処なし。勝義諦の文字を用ゐ、世俗諦の文字を用ゐ、あるいは天上の文字を用ゐ、あるいは畜生道の文字を用ゐ、あるいは修羅道の文字を用ゐ、あるいは百草の文字を用ゐ、あるいは万木の文字を用ゐる。このゆへに、尽十方界に森森として羅列せる長短方円、青黄赤白、しかしながら経巻の文字なり。経巻の表面なり。これを大道の調度とし、仏家の経巻とせり。」


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