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「人は死ぬために生きている⁉」


      父(前住職)の遺言

4月29日に父(前住職)が亡くなり、火葬までの数日間、「最後のお別れに」「最後にひと目お顔を」と多くの方が弔問に訪れて下さいました。

その中にお一人に父の幼なじみの方がおられました。
小学校・中学校・高校と同級であったその方は、遺骸との対面の後、生前の父とのある「思い出」を語って下さいました。
「昔、○○ちゃん(父の愛称)に
『人間は何のために生きとるのかな?』
と尋ねたことがあったんだが、そうしたら○○ちゃん、
『死ぬために生きとる!』
と答えてなあ。ずいぶんびっくりしたんだが、○○ちゃん、どういうつもりでああいうことを言ったんだろうか?」

この会話がいつ頃交わされたものかはわかりませんが、「死ぬために生きている」とは我が父ながら結構乱暴な、というか大胆な物言いをしたものです。

「死ぬために生きている」と聞けば、下手をすれば、
「どれだけ頑張っても結局は死ぬんだから、何をしても無駄だ。
 所詮人生は虚しいものだ」
という厭世的な意味にもとられかねません。 しかし、父をよく知るその方は、おそらくは
「あいつがそんな意味で言うはずはない。
 そんなことを言うような人間ではない」
と思いながらも、
「じゃあ、どういう意味だろうか?」
とずっと疑問に思っていらしたのではないでしょうか。

父の本意は不明ながら、私は次のように答えさせていただきました。

「『死ぬため』の前に『よく』をつけてみたらどうでしょう。
 つまり『よく死ぬため』、もしくは『死に切るため』だ、と。
 よく死ぬため、死に切るためには『よく生き』なければならない、『生き切ら』なければならない。
 こういう意味ではないでしょうか」

この答えにその方は「なるほど」と頷いておられました。

     流転輪廻・生死流転

「生き切る」「死に切る」の反対語は何でしょうか。

自分の人生の最期に何らかの心残りややり残し、未練や後悔が残ってしまった時、人はこう言うのではないでしょうか。

「死んでも死に切れない!」

この世に恨みを残し、死んでも死に切れなかった人間はどうなるのか。
それこそ「恨めしや」と化けて出るしかありません。

怪談話はさておき、古代インド以来、この世で煩悩(ぼんのう)にまみれた人間は、次の生では良くないところ(悪道・悪趣)に生まれ変わると考えられていました。

貪欲(とんよく)絶えず欲求不満で貪りの心に執われて生きた人は、折角手に入れた食べ物も燃え上がり常に飢えていなければならない餓鬼(がき)に、愚痴(ぐち)他者への感謝や自分への反省もなく不平ばかりの人生を送った者は、飼い主の残飯を与えられその生殺与奪を握られてしまっている動物、つまり畜生(ちくしょう)に、瞋恚(しんに)怒りに任せて争ってばかりだった人は、絶えず戦い続けて心安らぐ時のない修羅(しゅら)に、そしてこれらの煩悩に振り回されて重罪を犯した人間は地獄(じごく)で際限のない責め苦を味わわなければなりません。

まれに人間界天上界(神々の世界)に生まれる時もありますが、大概はこれらの苦しい境涯を延々と生まれ変わり死に変わりし続けなければならない。

これを流転輪廻(るてん・りんね)・生死流転(しょうじ・るてん)と言います。

   
 
   
  【「六道絵・阿修羅道図」(聖衆来迎寺蔵)】
   
 
     「涅槃」(完全燃焼)


これに対して釈尊、お釈迦様の目指されたものが「涅槃」(ねはん)輪廻を断ち切った、二度と流転することがない境地でした。

「涅槃」の原語「ニルヴァーナ」は「吹き消す」という意味であり、「涅槃」とはつまり「(流転の原因である煩悩の)火を吹き消された状態」を指しますが、金子大榮先生はそれをさらに積極的に
涅槃とは完全燃焼である
とされ、
「煩悩妄念の自らを薪として自らの生涯を『完全燃焼』たる涅槃へと一歩一歩向かわしめるものが親鸞聖人が説かれた本願念仏の仏道である」
と説かれました。 「よく死ぬ」「死に切る」とはこの悪趣に生まれ変わることのない「涅槃」、「完全燃焼」としての死を言うのではないでしょうか。


   
 
   
  【「釈迦涅槃図」(一畑薬師・一畑寺蔵)】
   
 
     誰かと較べる必要はない


では、「よく死ぬ」ために、「完全燃焼」としての死を迎えるためにはいったい何が必要なのでしょうか。

私はそれを、自分は自分の与えられたこの「場所」で、他でもないこの「自分」を精一杯燃やして生きていくのだ、という「覚悟」であると考えます。

10年ほど前のベストセラーに『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子著、幻冬舎・2012年) というタイトルの本がありました。

花は置かれる場所・環境を自分では決められません。
風に吹かれるタンポポの綿毛は落ちる場所を選べません。
肥沃な土地に落ちることができれば幸運ですが、道端の砂利の上やひどい場合にはアスファルトの割れ目に落ちることさえあります。

そしてまた花は、「自分は別の種類の花の方が良かった」という愚痴や不平は零しません。

どの花もただ黙って、置かれた場所で、咲くべき季節に、その花ならではの色・形で、それぞれに精一杯咲いて散っていきます。

   
 
 
  【渡辺和子著『置かれた場所で咲きなさい』】
   
 
人間もそうあるべきではないでしょうか。
どれだけ転職や転居を繰り返して外的な環境を変えても、100パーセント満足のいく職場や居住地などどこにもありません。
どんなに自分が嫌いであっても自分が自分であること(男性であること、日本人であること、令和の時代を生きていること……etc)から逃げることはできないのです。

それならば、いたずらに他と比較して他人を羨むのでも、自分を貶めるのでもなく、今この場所で、この自分を咲かそうと精一杯生きる。
それ以外に、自分を燃やし尽くしていける道はないのではないでしょうか。

『大無量寿経』にははからずも次のように説かれています。
「如来(=釈迦如来)、世に出興したまう所以(ゆえん)は、群萌を拯(すく)い恵むに真実の利を以てせんと欲(おぼ)してなり。」(『大無量寿経』)
私たち人間は「群萌」(ぐんもう)群がり萌(きざ)す名もなき雑草一本一本のような存在であり、お釈迦様が世に出られたのはこのような私たちをこそ救うためである、と。

この場合私たちは「花」ではなく「雑草」になるわけですが、親鸞聖人は『尊号真像銘文』の中でこの文を解説して
「仏(=釈迦仏)の世にいでたまうゆえは、弥陀の御ちかいをときてよろずの衆生をたすけすくわんとおぼしめすとしるべし」(『尊号真像銘文』)
と述べて「群萌」を「よろずの『衆生』(しゅじょう)」と抑え、さらに別の箇所では、
「『十方衆生』というは、十方のよろずの衆生なり。
 すなわちわれらなり」(『尊号真像銘文』)
として群萌=衆生=私たちである、と抑えていらっしゃいます。

「衆生」とは、人間を含んだあらゆる生きとし生けるものを表す仏教語ですが、『浄土論註』には、

「汎(ひろ)く衆生の名義を解するに、それ三有(さんう=三界)に輪転して衆多(あまた)の生死を受けるをもってのゆえに、衆生と名づく」(『浄土論註』)
とあって、「」(まん)他人と比較して自分を高みに置こうとする心に基づいて貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩を起こし、その結果三界(さんがい、欲界・色界・無色界)、それも主に悪道・悪趣を延々と生まれ変わり死に変わり流転輪廻し続ける私たちのことである、とされています。

これが仏様の智慧の眼から見た私たちの「在り様」なのです。

そのような私たちに対して、煩悩に振り回されて流転輪廻を続けるのではなく、煩悩の身(命)を生きながらその身(命)を完全に燃焼させるべく、

「他人と自分を較べる必要はない。
 較べてばかりいても何も生まれない。
 お前はお前の道を歩くのだ。
 『正解』の道を選ぶのではなく、選んだ道を『正解』にしていくのだ」

と呼びかけてくださっているのが阿弥陀様であり、お釈迦様であり、親鸞聖人なのではないでしょうか。


   
 
   
  【融通念仏宗・専念寺「今日の法語」より】
 
 
父が遺してくれた「死ぬために生きる」という言葉。
父がどんなつもりでそれを発したのか、本当のところはわかりませんが、現在の私はこの言葉をこのような教言仏様からの呼びかけとして受け止めています。
 
 
【註】
  三界(さんがい)
仏教の世界観で、生きとし生けるものが生死流転(るてん)する、苦しみ多き迷いの生存領域を、(1)欲界(よくかい)、(2)色界(しきかい)、(3)無色界(むしきかい)の3種に分類したものをいう。
(1)欲界はもっとも下にあり、性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む領域である。ここには地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天の6種の生存領域(六趣(ろくしゅ)、六道(ろくどう))があり、欲界の神々(天)を六欲天という。
(2)色界は前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな領域をいう。絶妙な物質(色)よりなる世界なので色界の名があり、四禅天に大別される。
(3)無色界は最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界である。ここの最高処を有頂天(うちょうてん)(非想非非想処)と称する。[坂部 明]
         (『小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)』)
「三界とは、一にはこれ欲界、いわゆる六欲天・四天下の人・畜生・餓鬼・地獄等これなり。
 二にはこれ色界、いわゆる初禅・二禅・三禅・四禅の天等これなり。
 三にはこれ無色界、いわゆる空処・識処・無所有処・非想非非想処の天等これなり。
 この三界はけだしこれ生死の凡夫の流転の闇宅なり。
 また苦楽小(すこ)しく殊(こと)なり、修短しばらく異なるといえども、統(す)べてこれを観ずるに有漏にあらざることなし。
 倚伏あい乗じ、循環無際なり。
 雑生触受し、四倒長く拘(かか)わる。
 かつは因、かつは果、虚偽あい襲う。」
           (曇鸞『浄土論註』巻上「清浄功徳」)
   
  (『西念寺だより 専修』第48号に掲載)
 
  《参考ウェブサイト》
Wikipedia「三界」の項
「生活の中の仏教用語・三界」(大谷大学・読むページ)
「聖衆来迎寺蔵『国宝・六道絵』を拝観して(大津市歴史博物館)」(山歩き町歩き日記)
 

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