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中でも印象に残ったのは、下記の「真宗王国X ―与わったもの―」という一文でした。
「真宗王国X ―与わったもの―
私はご門徒から、よくほめられます。[あんた、ええ声してるね」「お経、ほれぼれするわ」「お説教、おもしろうて、よう分かったわ」。そんなことを言われているうちに、私はテングになっていきました。
そんなとき、あるお婆さんが私に言いました。「あんたに与(あた)わったもんやね」。頭をガツンと叩かれたようでした。私にすでに与えられているということは、私の努力とか修行によって獲得したものではない、ということです。
お婆さんの言葉は、「何をうぬぼれてるんや」と私に聞こえました。」
(『スカッと念仏 ―モヤモヤが消える―』25頁)
なぜこの一文かと言えば、たまたま私自身が「3月の法話」で、
「身も心も、私の全体が祖先からの贈り物、賜りもので出来上がっていると言えます。」
と書いていたからでもありますが、いつのまにか、それを「忘れて」しまっている自分に気がついたからです。
ガツンとやられた自分が、そう気づかせてもらったはず自分が、元の木阿弥というか、いつのまにか「自分はエライ、スゴイ」に戻ってしまっている。
気がつけば、「与(あた)わったもん」ではなく、自分の
「手柄(努力の成果)」としての「ええ声」、「おもしろくて、よくわかるお説教」……、に逆戻りしている。
そして、心の中は「ワシがこんだけ努力して、苦労しとんのに、それをお前らときたら……」と周りに対しての愚痴やら憤りやらで一杯。
また、「気づかせてもらった」どころか、「自分はそのことに気づいた。気がついたんだから自分はエライ。」と、折れたテングの鼻が今度は別の形で伸びて始めているのです。
私たちの「我執」、「自力の執心」、「ワシが、ワシが……」の根性はそう生易しいものではない。
だからこそ
「教えを聞くしかないんだ
。
自分だけが救われていない人間だ。
自分こそが聞かなければいけない人間なんだ。
」
なんですよ、ねっ。河合さん。
「 蓮と鶏(にわとり)
泥のなかから 蓮が咲く。 それをするのは 蓮じゃない。
卵のなかから 鶏(とり)が出る。 それをするのは 鶏じゃない。
それに私は 気がついた。
それも私の せいじゃない。
(金子みすゞ)」
……ハッ!!!(;゜Д゜) ……今「気がついた。」!!
そういえば、まだ本の「礼状」送ってない。
やばい、完全に「忘れて」た。
……(‐__‐ゞ)
……m(_ _)m ペコリ (この場を借りて、)ありがとうございました。
(5月21日) |