犬丸は懐をさぐると、なにかをとりだして忠範(ただのり、後の親鸞聖人)に手渡した。
灰白の小石だった。
いつもツブテの弥七(やしち)が、掌てのひらでもてあそんでいたツブテの石である。
「数日前、あの弥七が訪ねてきて、忠範さまが家をでられるときには、これをお渡しするようにと―」
忠範はけげんそうに渡された小石をながめた。
「これは、石ころではないか」
「そうです」
犬丸はうなずいて、忠範の耳もとでささやくようにいった。
「弥七は、こうわたしめに言(こと)づけたのです。
忠範さまは、われら悪人ばらのためにお山で修行なさるのだ。
だから忠範さまに伝えてほしい。
もし、運よく物事がはこんで、自分がなにか偉い者ででもあるかのように驕
(おご)りたかぶった気持ちになったときは、この石を見て思いだすことだ。
自分は割れた瓦
(かわら)、河原の小石、つぶてのごとき者たちの一人にすぎないではないか、と。
そしてまた、苦労がつづいて自分はひとりぼっちだと感じたときは、この河原の小石のようにたくさんの仲間が世間に生きていることを考えてほしい、と。
弥七はそのように申して、これを忠範さまに渡すようにと頼(たの)んで消えました。
そうそう、もう一つ。
なにか本当に困ったときには、どこかにいる名もなき者たちにこの小石を見せて、弥七の友達だといえばいい、と」
忠範はその小石を手のなかににぎりしめた。
犬丸の懐のなかにあったせいか、かすかなぬくもりが感じられた。
「ありがとう」
と、忠範はいった。犬丸にでもなく、弥七にでもなく、伯父やサヨたちにでもなく、なにか自分をとりまくすべてのものに対して、心から感謝したい気分だったのだ。
(五木寛之『親鸞 上』より)
「能令瓦礫変成金」というは、「能」はよくという、「令」はせしむという、「瓦」はかわらという、「礫」はつぶてという。「変成金」は、「変成」はかえなすという、「金」はこがねという。かわら・つぶてをこがねにかえなさしめんがごとしとたとえたまえるなり。
りょうし(猟師・漁師)・あき人(商人)、さまざまのものは、みな、いし・か
わら・つぶてのごとくなるわれらなり。
如来の御ちかいをふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたま
うは、すなわちりょうし・あき人などは、いし・かわら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとえたま
えるなり。(親鸞聖人『唯信鈔文意』)