法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
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寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 ~ 第44号<2019年6月発行>
 
桜の木に想う

散る桜
 残る桜も 散る桜 (良寛)

盛りを終えた桜が折からの風に散っていく。
散っていく桜もあれば、まさにこれから盛りを迎えようとする桜もある。
しかし、散りゆく桜を見送るかのようなその桜も、やがて間違いなく散っていくのだ。

脆くはかない人の命を、散り急ぐ桜の花に託して詠んだ一句です。

去る4月8日、亡き母の荼毘(火葬)を終えた私たち遺族は葬儀会場へと向かっておりました。
折しもその日の米子市は快晴。
市内の桜は満開。
バスの窓から母の遺骨と遺影を道沿いの木々に向け、満開の桜を母に見せながらの道中となりました。

灌仏会(かんぶつえ)
 桜の下を 母葬(おく)る (自作)

【 1 】

葬儀から数日後、街に出た私は、一本の桜の木を見上げていました。
数日前雨に打たれた枝からは蒼い若い葉が芽吹き、ちょうど花と若葉が半々ぐらいの状態でした。
それを見た私は思わず

「こうして観ると、葉桜も良いもんだな。」

とつぶやいていました。

私はこの時、自分がこれまで桜の木に対してずいぶんと失礼な物言いをしてきていたことに気づきました。

桜の花の盛りは本当に短いものです。
暖かな日が数日続けば一気に花が開き、ほんのひと雨降っただけですぐに葉桜となってします。
その盛りの短さにある人は人生の無常を感じ、その散り際の潔さにある人は人生の美学を学び、桜は多くの文学作品の題材となってきました。

その影響もあってか、私は桜の花が散ることを「桜が終わる」と表現してきました。
ひと雨来れば「桜が終わってしまいはしないか」と心配し、葉桜となった枝を見上げては「今年の桜も終わったか」と口にする。
疑いもなくそんな言葉を口にしつつ数十回の春を過ごしてきました。

しかし、この時初めて私は、

「花が終わったから、桜が終わったわけではないんだ。
 花だけが桜ではないんだ。」

と気がついたのです。

花イコール桜ではない。
花が終わっても桜の木は生き続け、そして来年の花に向かってしっかりと準備をしている。
花が散り、葉が繁ることがなければ来年の花が咲くこともないのだ、と。

桜は自然の摂理に順って,咲くべき時が来れば咲き、散るべき時に散り、若葉を伸ばしていく。
それに対して人間(私)はと言えば、さかしまな分別を振り回して、「良い」「悪い」、「綺麗」「汚い」、「好き」「嫌い」……と。
桜はただ黙って自らの務めを果たしているに過ぎないのに。


 
 
   
 
【 2 】

私がこのように感じたのには理由があります。

4月6日に母が息を引き取ってから葬儀を終えるまで、遺族は故人を送るために慌ただしい時間を過ごしていました。
そんな中で故人の孫たち私からすれば姪や子どもたちが祖母の葬儀のためにそれぞれ一生懸命に動いてくれている姿を目にしたのです。

「この子たちはいつの間にこんなに大きくなったんだろう?
 しっかりとしてきたんだろう?」

親バカ、伯父バカと笑われるかもしれません。
まだまだ経験も足りないし、こちらが指示を出さねば動けない。
それでも何とか祖母の葬儀を無事に、立派に、と奮闘していたその姿が、花の脇で芽吹いたばかりのまだ蒼く柔らかい若葉と重なって見えたのです。

花が散ってこそ次の若葉が生えてくる。
花が散らなければ若葉は生えることはできない。
花は散ることを通して若葉の場所を開けてやる。
花は散ることを通して若葉の場所、即ち次の世代の活躍の場所を与え、散ることを通して若葉を教え育てていくのでしょう。

桜が散り、人が去っていくのは確かに寂しく悲しいことですが、こう考えてみると「無常」も、「死ぬこと」もそう悪くはないな。
そんな物思いにふけった葉桜の下での数分間でありました。

【 3 】
あなたが空しく生きた今日は、昨日死んでいった者が、あれほど生きたいと願った明日

韓国の小説『カシコギ』(趙昌仁・チョ・チャンイン作)の一節です。

私たちの口から出る「虚しい」「生きていてもつまらない」という言葉が、実際には「生きて在る」ことのかけがえのなさを忘れて「当たり前」にしていることから生まれた、きわめて贅沢かつ傲慢な「愚痴」であることをこの一節は教えてくれます。

そしてこの一節は同時に、私たちが生きていることそれ自体が、それと知らないうちに、誰かから何かを託され、限りある命を大事に精いっぱい生きて欲しいと願われているということを教えてくれます。

笑うべき時には腹から笑い、泣くべき時には思いっきり泣いて、苦しまねばならない時は歯を食いしばってそれに耐え、いずれ散るその時まで、「残る桜」として、それぞれの場所で与えられた時間、役割を精一杯生きてまいりましょう。


(『西念寺だより 専修』第44号に掲載)



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