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「善信」と「親鸞」 豅 弘 信 はじめに 真宗門徒が宗祖と仰ぎ、『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』)を始めとする多数の著述を遺したのは、それらの著作の撰号や奥書、および書簡への署名などから、「愚禿釈親鸞」と名告った人物であることが知られている。 では、親鸞はいったいいつの時点から「親鸞」と名告ったのであろうか。 『歎異抄』蓮如書写本末尾の流罪記録、
を信頼するならば、「流罪以後」、すなわち建暦元年(1211)11月17日の赦免以後、罪名の「藤井善信」を止め、「愚禿親鸞」と自ら署名し始めたことになる。 ただし、現在確認される「愚禿親鸞」の使用例は、ごく初期のものとしては、寛喜2年(1230)、親鸞58歳時の『唯信鈔』書写本(専修寺蔵・信證本)の奥書、 草本に云(いわ)く、 あるいは、文暦2年(1235)、63歳の時、この寛喜2年の写本をひらがなで転写した際の奥書(専修寺蔵『見聞集』『涅槃経』の紙背に現存)、 御年五十五なり。文暦二年乙未三月五日、御入滅なり。などがある。 また、『教行信証』真蹟坂東本の最も古い執筆部分は63歳頃の筆跡と推定されており、そこには「愚禿釈親鸞」の撰号が記されている。 「禿」の字に関しては、『教行信証』「化身土巻(末)」掉尾のいわゆる「後序」に、 これに因(よ)って、真宗興隆の大祖源空法師、ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥(みだ)りがわしく死罪に坐(つみ)す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて、遠流 (おんる)に処す。予(よ)はその一なり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆえに「禿」の字をもって姓とす。として、「承元の法難」による強制的な還俗とその後の流人生活を経て獲得した「非僧非俗」の自覚に基づいて主体的に選び取った「姓」であることが親鸞自らの筆で記されている。 しかし、「親鸞」という名を選び取った経緯はどこにも記録されてはいないかに見える。 今回筆者が注目するのは、同じく「後序」が伝える選択付嘱・真影図画の記事、 元久乙(きのと)の丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。に記される元久2年(1205)閏7月29日の改名の記録である。 この事件を、例えば『真宗新辞典』(法蔵館・1983)の「しんらん 親鸞」の項は、 翌年[筆者註・元久2年]選択集の附属をうけ、法然真影の図画を許された。このころ善信と改名。と記している。 この記述が示すように、この元久2年の改名は「綽空」から「善信」への改名であり、それに対して「親鸞」は、越後流罪中のいつの時期からか名告り始められた名である、と一般的に考えられている。(以下、便宜上これを「善信」改名説と呼ぶ) この「善信」改名説の嚆矢は、親鸞の曾孫覚如と考えられ、覚如はその著『拾遺古徳伝』において「後序」の改名の記事を、と解説し、息男存覚もまた、 と父の説を継承し、以後諸師のほとんどがこれに順じている。 しかし、筆者は、この時の改名こそが「綽空」から 「親鸞」への改名であり、親鸞はこの時をもって、師法然の印可のもと、「親鸞」と名告り始めたと考えるのである。(以下、「親鸞」改名説と呼ぶ) 確かに「後序」はこの改名が「親鸞」へのそれであると明記してはいない。しかしまた「善信」だとも明記されていない。 夢告に依って「綽空」の名を捨て、法然の真筆をもって讃文とともに記されたこの「名の字」が、定説の通り「善信」だとするならば、なぜそれが明記されていないのか。 このことは筆者が初めて「後序」を眼にして以来の疑問であった。 そして、「善信」改名説を採るならば、「愚禿釈親鸞集」との撰号をもつ『教行信証』の、しかもその撰述の事由を語ったとされる「後序」に、「親鸞」と名告った時期やその経緯が一切記されていないことはきわめて不自然と言わねばならないはずである。 今回 筆者は、「善信」説 がもつ種々の矛盾点を検証し、「親鸞」説の妥当性、もしくは蓋然性を「後序」の文の検討を通して論証していきたい。
― 諱(いみな・実名)と字(あざな・仮名) ― a. 「善信」は房号か? この問題を検討するにはまず、日本中世の人名に関する慣習にふれなければならない。 当時、人名には諱(実名)と字(仮名)があり、僧においては房号が字として通用していた。日常の会話の場において他者がその人を呼ぶ際には字(通称)で呼び、自らが自分を表わす際には諱・字両方を用いたが、諱は自らが名告る時のみに限られていた。しかし、文章に表記する際はその限りではなく、殊に公文書の性格をもつ漢文体においては自称他称にかかわらず諱が用いられることが常であった。 いずれにせよ、諱とは元来「忌み名」であり、死者を生前の本名・実名で呼ぶ際に用いた名であり、それゆえ生存中の相手を他人が口頭でその諱で呼ぶことは重大な禁忌(タブー)であった。A例えば、親鸞は師法然房源空をその没後、「真宗興隆の大祖源空法師」(『教行信証』・原漢文)、「本師源空」(『高僧和讃』・和文)と記し、口頭では 「法然聖人」(『歎異抄』)、あるいは「大師聖人」(『消息』等)と呼んでいたが、生前の法然その人に向って「源空聖人」と呼び掛けることはなかったはずである。 そして、法然は「沙門源空」(「七箇條起請」・原漢文)と署名し、「十悪の法然房・愚癡の法然房」(『和語燈録』)もしくは「源空」(『歎異抄』)と自らを称していたのである。以上のことから知られるように、「善信」が房号であったならば、「善信」説を採ることは、法諱(実名)を改めて房号(仮名)を名告るという、きわめて不自然な主張をしていることになるのである。 それゆえ「善信」説を採る諸師には、その整合に苦心した跡が見うけられる。前掲の覚如『拾遺古徳伝』においても「善信と号す」(「名のる」ではない)と善信が坊号であることを認めている。 存覚は『六要鈔』(延文5年・正平15年(1360)著)において、 この故に今「愚禿釈」等と云う。「親鸞」というは、これはその諱なり。として、吉水入室の際に名告った「綽空」は「仮実相兼ぬ」―仮号かつ実名Bであり、聖徳太子の夢告によって法然の受諾のもと、仮名としての綽空のみを善信と改め、その後に実名としての綽空を親鸞と改めたと述べるのである。 これによれば、親鸞は改名以後も「善信房綽空」と名告っていたことになる。 また乗専の『最須敬重絵詞』(文和元年・正平7年(1352)、覚如没の翌年の編)においては、
として、六角堂夢想・吉水入室(「綽空」と改名)の後に、再度の夢告によって、法然の承諾のもと、房号を「善信」と改めたと述べている。 建仁元年の六角堂夢想の後にもう一度夢告があり、しかもその時同時に実名を「親鸞」と改めた、というこの『敬重絵詞』の記述によれば、親鸞は流罪以前の吉水時代に「善信房親鸞」と名告っていたことになり、注目に値する。しかし、『敬重絵詞』のこの記述にしたがえば、改名が選択付嘱・真影図画以前のこととなり、法然の受諾のもとで親鸞が実際に改名したのは元久2年の真影図画の折であるから、改名の契機となったもう一つの夢告の時期が選択付嘱の前であった可能性は残されてはいるものの、夢告の時期を「九十五日のあか月」(『恵信尼書簡』)ではなく「九十九日に満ずる夜」とした誤りともあわせて、この記事を 100パーセント信頼することはできない。 この記事から想像できるのは、当時すでに吉水期の親鸞行実が正確に伝わっていなかったということであるが、吉水入室後の再度の夢告という記述はやはり注目に値すると思われるので、これらの問題については、後程詳しくふれることとする。 さて「善信」の名であるが、親鸞は終生「善信」の名を用いており、「善信」を捨てて「親鸞」を名告ったわけではない。『歎異抄』「後序」が伝える吉水時代のいわゆる信心一異の諍論の記事によって、 「善信が信心も、聖人の御信心もひとつなり」 と、彼が「善信」と自称し、師法然を始め、勢観房・念仏房ら吉水の門侶もまた、 「いかでか聖人の御信心に善信房の信心、ひとつにてはあるべきぞ」 と、彼を「善信房」と呼んでいたことが知られる。 また、妻恵信尼が親鸞の死の直後、末娘覚信尼に宛てて関東時代の親鸞の行実を書き送った際に、常陸下妻で見た堂供養の夢を語る一段において、夢の中の登場人物が「 善信の御房」と呼び、寛喜の内省を語る一段において恵信尼自身が同じ呼称を用いている。(以上、『恵信尼書簡』参照)これらの事実からだけでも「善信」が諱(忌み名)ではあり得なかったことが知られる。 また、帰洛後、親鸞が関東に送った消息の中でもしばしば自身を「善信」と呼び、文応元年(1260)の乗信房宛の書簡(『末灯鈔』所収)では、文中で
と名告り、末尾に、
と署名している。 そして、正確な年次は不明ながら、最晩年の遺言状とも想定される、常陸の門弟宛に「いまごぜん(今御前)のはは(母)」の扶養を依頼した書簡においても、
と署名している。 このように親鸞は、吉水期から最晩年にわたって「善信」の名を用いているが、それと並行して「親鸞」の名も用いている。前に挙げた 60歳前後の『唯信鈔』書写本・奥書における使用に始まり、帰洛後の教化の具体的言説を伝える『歎異抄』が、 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。(第二章) と、日常会話において用いられた「親鸞」の名告りを伝えているCし、帰洛後の消息にも文中・署名を問わず「親鸞」の名が用いられている。 そして、最後の著作とされる『弥陀如来名号徳』にいたるまでそれは継続する。長野・正行寺蔵本の『弥陀如来名号徳』の奥書、 草本に云く、 に拠れば、この『弥陀如来名号徳』は、前に挙げた乗信房宛書簡(文応元年11月13日の日付・「善信」と署名)とほぼ同時期に記されており、「善信」・ 「親鸞」いずれもが諱であるとすると、二つの諱を同時期に用いていることになり、きわめて不自然なことと言わねばならない。 しかしこれらの事実は、「善信」を房号と考えれば、何の矛盾も生じないのである。この、いわゆる“「善信」イコ―ル房号”説は、
前掲の『拾遺古徳伝』、『六要鈔』、『最須敬重絵詞』にも見られるように、決して目新しいものではない。 流罪のひとびと、…善信房親鸞 越後のくに国府 罪名藤井の善信 として、「善信」を房号と記しているのである。 しかし、結論を急ぐ前に、ここでは「善信」を房号と考える上での否定的な材料を挙げて検討を加えてみたい。その一つが「愚禿善信」の用例であるが、論文冒頭で挙げた文明 5年(1473)の蓮如開版本・三帖和讃の撰号の他に、大谷大学蔵端の坊旧蔵本『一念多念分別事』 (室町末期の写本)の奥書、 本に云く、 に見ることができる。 これらの用例は「善信」が房号ならば、本来考えられない名告りである。 しかし、文明本・三帖和讃にせよ、端の坊旧蔵本にせよ、親鸞在世当時の記述をはたして忠実に伝えているかははなはだ疑問と言わなければならない。 これらの室町期の諸本の存在からはむしろ、「愚禿(釈)善信」の用例は、「善信」改名説が定着して 「善信」が房号であることが見失われた後に、写伝の過程で混入したものであると想像されるのである。 また、『西方指南鈔』巻中末所収の「七箇條制誡 (七箇條起請)」末尾には、 元久元年十一月七日 沙門源空 との「善信」の署名が見られる。 漢文による公文書である「起請文」に署名する際は、法然を始め門弟はみな諱を記しており、嵯峨・二尊院に伝わる原本に拠れば、親鸞はその折11月8日に「僧綽空」と、当時の諱で署名している。 ちなみに『西方指南鈔』巻中末の奥書は、
と、『西方指南鈔』執筆時の諱「親鸞」を用いているから、本文と奥書との統一性、あるいはまた他の門弟の署名との統一性を考えるならば、「善信」ではなく「親鸞」と書いた方が妥当であるにもかかわらず、ここでは「善信」と記しているのである。 事実、この一例のみをもって「善信」が実名である、この記述が「綽空」を「善信」に改めた唯一の証拠である、と主張する研究者も存在する。D 筆者はむしろ、この「善信」の記名が、元久元年の時点で、親鸞がすでに「善信」の房号を用いていたことの証左となるのではないかと考える。 『西方指南鈔』は、康元元年(1256)から書写が進められ、翌康元2年正月2日に6巻全ての書写・校合が終了するが、即座に門弟覚信による書写が開始され、親鸞自筆本もまた高弟真仏に付嘱され、現在まで専修寺に伝来している。 吉水期の「善信」と赦免以降の「親鸞」という2つの名を併記する『歎異抄』の例から見ても、当時、関東教団内においては、「善信」と「親鸞」が同一人物であることは周知の事実であった。 しかし、「綽空」イコ―ル「親鸞」という共通理解が彼らにあったとは考え難い。 そういった事情からすれば、吉水時代の一時期にのみ名告った諱「綽空」では誰のことなのかが伝わらない。 以上、「善信」が房号であることの論証に紙数を費やしてきたが、次いで「善信」改名説の発端について検証していきたい。
覚如が初めて「善信」説を提唱した『拾遺古徳伝』は、正安3年(1301)、覚如32歳の時に制作されているが、それより以前の永仁3年(1295)、 26歳の年の10月中旬、覚如は初めて『親鸞伝絵』を制作している。 『伝絵』はその後、覚如自身の手によって改訂が繰り返されていくが、最も初期の形態を伝えると言われるものは、永仁3年10月製作の奥書をもつ『善信聖人絵』(西本願寺蔵・琳阿本)と、初稿本を同年 12月中旬に書写したとの奥書をもつ『善信聖人親鸞伝絵』 (専修寺本)である。 それらは、親鸞の吉水入室をそれぞれ
とし、六角堂夢想をそれぞれ
として、六角堂夢想をいずれも建仁3年(1203)の出来事(但し専修寺本の干支「辛酉」は誤りで「癸亥」が正確)としている。 ちなみに康永2年(1343・覚如74歳)の製作である『本願寺聖人伝絵』(東本願寺蔵・康永本)は吉水入室を
と、六角堂夢想を
としている。 専修寺本、西本願寺本、康永本の詞書はいずれも覚如の直筆であって、これらの年次の誤りの原因について先学は種々論議されているEが、今回の論考ではその問題にはふれない。 ただ、『伝絵』のこれらの記述から筆者は、『伝絵』制作当時覚如は、親鸞が建仁3年4月の六角堂での夢告によって2年後の元久2年閏7月に「善信」と改名した、と考えていたのではないかと推測するのである。 赤松俊秀氏によれば、彼の『恵信尼書簡』を初めて見たのは父覚恵が没した徳治2年(1307)、すなわち『伝絵』制作の12年後、38歳の時であり、それゆえ初稿本制作当時の覚如には、『恵信尼書簡』が伝える、親鸞が六角堂の夢告に促されて法然を尋ねたという歴史的事実の認識がなかったとされる。F それゆえ前掲の『古徳伝』(覚如32歳時の制作)の吉水入室(建仁元年(辛酉))の記事にも六角堂夢想の記述はない。 覚如は『伝絵』六角堂夢想の段に「彼の『記』にいわく」として、専修寺蔵・真仏書写の『親鸞夢記』を引用している。『夢記』によれば、
とあり、親鸞はここで太子の本地である六角堂の救世観音によって「善信」と呼び掛けられ、宿世の業報によって「女犯」する「行者」(親鸞)に妻として一生同伴し、よく往生浄土の仏道を歩ましむるという「吾が誓願」を伝えられている。 『恵信尼書簡』によれば、六角堂参篭95日目の「暁」(午前2〜4時頃)、聖徳太子の示現にあずかった親鸞は、「後世(ごせ)の助からんずる縁にあいまいらせんと 、たずねまいらせて」(『恵信尼書簡』)、
と、「女犯」(妻帯)が念仏往生の妨げとならないことを説く法然と値遇する。 このことから筆者は、このいわゆる「女犯偈」こそが「九十五日のあかつき(暁)の御じげん(示現)のもん(文)」(『恵信尼書簡』)であったと考えるGが、覚如はこの「女犯偈」が太子の「示現の文」であったことどころか、「示現の文」自体が何であったかを終生知らなかった可能性さえあるのである。 平松令三氏は、覚如が『恵信尼書簡』を初めて見た時点ですでに「六角堂夢想偈文」が欠失していた可能性を指摘されておりH、それによれば38歳以降の覚如には親鸞の吉水入室が六角堂での夢告を契機としてなされたという認識はあっても、その夢告が「女犯偈」であったという認識は終生なかったことになる。 それゆえ覚如は『伝絵』において「女犯偈」を、吉水入室の契機として説くことはなく、あくまで東国伝道、念仏繁昌の予言と見ているのである。(前掲の『最須敬重絵詞』の“二度の夢告”の記述は、おそらく覚如のこのような親鸞伝理解を承けてのものではなかろうか、と思われる。)I 覚如が「善信」説を立てる際の典拠となったものは、元久2年の夢告による改名を伝える「後序」の記事と、前掲の真仏書写『夢記』であろう。 (ちなみに『夢記』には夢告の時期は記されていない) そこで、ここからは筆者の推測なのであるが、親鸞の吉水期の行実が正確に伝わっていなかった当時、親鸞がある夢告によって、あるいは六角堂での夢告によって「善信」と改名した(ただし夢告の時期は不明)といった伝承、あるいは建仁3年に何らかの夢告があった(ただし夢告があったという事実のみが伝わって、「綽空」に「親鸞」への改名を促したようなその内容までは伝わらなかった)といった伝承が存在したのではないだろうか。 しかし、歴史的事実としての六角堂夢想は吉水入室の直前、建仁元年の出来事であり、したがってそれから4年後の元久2年の改名を考える場合、改名の契機となった夢告は、それとは別の夢告、吉水入室以後のそれを想定すべきではないだろうか。
また、親鸞が「善信」と号し始めた時期も、もっと早い時期、まさに官僧から遁世して吉水に入室したその時からと考えるべきではないだろうか。 そして、吉水期の親鸞の諱「綽空」は、伝説によれば法然から与えられた名であると言われている。平安・鎌倉期は、父子・兄弟が名前に一字を共有する通字・系字の慣習が僧侶間でも一般的でありK、「綽空」の「空」は、当然「源空」のそれから採られたものと考えられる。 親鸞は太子・法然という、まさしく観音・勢至二菩薩の化身の引導によって、吉水入室を機に「善信房綽空」と名告ったことが想像できるのである。 以上の考察を通して、「善信」改名説はほぼ論破し得たように思うので、続いて「親鸞」改名説の検討に移ることとする。
(『親鸞教学』第75号(大谷大学真宗学会・2000)に掲載の論文を加筆補訂)
〔「「善信」と「親鸞」 ―元久2年の改名について―(下)」につづく〕
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