法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2020年1月~12月分)
 
 
 


学術論文掲載


住職の母校大谷大学の学術誌『大谷学報」に論文が掲載されました。


 「『難思議往生』の人法然
     ―元久2年の『真影』の銘を手掛かりとして―」
              (『大谷学報」第100巻・第1号)
 
 
 

発刊の1年後(明年11月)に大谷大学学術情報リポジトリで全文が公開される予定ですが、「抜刷」希望の方がもし居られましたら、お手数ですが、メールアドレスinfo@sainenji.netまでその旨をお知らせください。
 

(11月6日)
 
 
 

御 報 告


昨年6月に上梓しました拙著『親鸞改名の研究』を学位請求論文として母校大谷大学に提出し、審査の結果、8月6日、博士(文学)の学位を授与されましたのでここにご報告申し上げます。
 
 
  
 
【 学 位 記 】
 
 
同窓会誌 『無盡燈』第146号掲載記事
 


「親鸞改名の研究 論文要旨」のPDFには『大谷大学学術リポジトリ』のこのページから

【博士論文 親鸞改名の研究】


 論文審査の「報告書」へはこちらのページからどうぞ。

【親鸞改名の研究(学位論文審査報告書)】


(8月6日)

 

教如上人関東下向の「謎」

            「英雄たちの決断」「その時、歴史が動いた」?!
               

 
東本願寺の実質的な初代(創設者)である本願寺第12代法主教如上人(1558~1614)。
 
 
 

若き日には織田信長と対峙して石山本願寺に籠城(~天正8年・1580年8月2日)し、後年の関ヶ原の戦い(慶長5年・1600年9 月15日)では、開戦前に下野国小山に滞陣中の徳川家康(東軍)を尋ねて自ら上方(西軍・石田三成方)の情勢を伝えた程の「豪傑」なんですが…… この時教如上人はなぜ、道中の危険をかえりみず、自らわざわざ小山まで赴いたんでしょうか?
手紙や部下の派遣ではダメだったのでしょうか?
周囲はなぜ断固諌止しなかったのでしょうか? 文禄2年(1593年)閏9月に豊臣秀吉によって本願寺法主から隠退させられたとはいえ、教如上人をリーダー(事実上の法主)と仰ぐグループはいまだ存在しており(因みに西念寺開基の教専もその一人)、その身の安否はもはや上人一個人の意思や感情でどうこうできるほど軽いものではなかったはずなのですが……
(実際、関東からの帰路、石田方の探索を受け、「もはやこれまでか?」と死を覚悟した場面もあったとか。) そうまでして家康に会わなければならない切迫した「事情」があったのでしょうか? 西軍(石田三成方)が勝てば自分たち(教如側門徒)に未来がない、と考えたのか。
(上場顕雄氏によれば教如上人はかつて豊臣秀吉政権下で豊臣秀長・千利休らの、石田三成と対立するグループに属し、文禄2年の上人の隠退の背後には三成の暗躍があったと推測されています。) 書状で知らせるにしても使者が小山までたどり着けない恐れがあるし、万一その書状が敵方に渡ったら今度こそ逃げ場のない窮地に追い込まれる、とでも考えられたのでしょうか。 理由はどうあれ、この折の関東下向が、教如上人自らと門徒衆の未来を賭けた「乾坤一擲」の行動であったことは疑えないのではないでしょうか。
>慶長5年(1600年)6月、教如は大津御坊を完成させて遷仏法要を行うと、突如、下野国小山にいる徳川家康に会いに東国に向かっている。
>教如はこの際に石田三成の手の者の襲撃を受けたとされ、後に護衛にあたった美濃国安八郡の門徒らに対して感謝の礼状を送っている。
>関ヶ原の合戦後の920日、教如は家康を大津に迎えている。

                (Wikipedia「教如」より)
……「突如、東国に向かった」とあるあたりに、「敵を欺くにはまず味方から」―周囲に反対の暇すら与えない「計画的犯行」の匂いがプンプンするのですが。
(2月4日)

 

 謹 賀 新 年


「学然後知不足、教然後知困。」(『礼記』


学びて然る後足らざるを知り、教えて然る後に困(くる)しむを知る


(学んでみて、初めて自分の知識や経験がいかに足りないかを知り、
人に教えてみて、初めて自分の未熟さや理解の曖昧さを思い知る。)

 
 
 

 旧年中の御厚誼に深謝しつつ、本年も宜しくご指導の程お願い申し上げます。
 
 (2020年1月1日)

 
 


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