法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2016年1月~12月分)
 
 
 


若き日の親鸞聖人は本当に性欲に苦しんだのか?


Facebook上で「友達」になった方のタイムラインに、親鸞聖人が主人公の50年以上前の映画『親鸞』(主演・中村錦之助、原作・吉川英治)が紹介されていました。

https://m.youtube.com/watch?v=nhx3TvGu3XA

YouTube上にアップされたこの動画には投稿者によって、

「親鸞 人生の前半 性欲に苦しむ青年時代 中村錦之助 1960年」

というコピー(宣伝文句)が付けられていました。

ところでこの「性欲に苦しんだ若き日の親鸞」という親鸞聖人像はいったいいつ頃、どこから生まれて来たのでしょう?...
親鸞聖人ご自身が「自分は若い頃、性欲に悩んで法然上人のもとに弟子入りした」と語っておられる訳ではありません。
(赤松俊秀先生が「性欲」説を唱えて大変な反響・批判を呼んだと聞いたような覚えもないわけではありませんが……)

おそらくは29歳の時の京都・六角堂で救世観音菩薩(聖徳太子の本地)から授けられ、聖人を法然上人のもとに導いたとされる「女犯(にょぼん)の夢告(むこく)」(通称「女犯偈」(にょぼんげ))

「行者宿報設女犯
 我成玉女身被犯
 一生之間能荘厳
 臨終引導生極楽」
(行者、宿報にてたとえ女犯(にょぼん)すとも、
 我、玉女(ぎょくにょ)の身となりて犯せられん。
 一生の間、よく荘厳(しょうごん)して、
 臨終には引導して極楽に生ぜしめん)

あたりが元ネタになっていると考えられます。

つまり性欲に悩んだ親鸞聖人が、

「たとえあなたが性欲に負けて戒律(不淫戒)を破ったとしても、私(救世観音)があなたの妻となって臨終には必ずあなたを極楽に往生させてあげます。」

というこの「夢告」に従って、破戒(女犯)をタブーとしない法然上人の念仏往生の教えに帰依し、めでたく愛する女性(九条兼実の娘玉日姫)と結婚した、というものです。
一連の親鸞伝はこの「夢告」を「妻帯の許可」と扱っています。

でも、折角救世観音のお告げを受けたのならば、何もわざわざ法然上人に弟子入りしなくても、そのままその女性のもとに赴いて結婚すれば良かったのではないか、という疑問が残らないでもありません。

また、「夢告」はこれで終わりではなく、六角堂の救世観音はこの「偈」を告げた後、

「これは私の誓願であるから、お前はこれを一切群生に説き聞かせよ。」

と聖人にお命じになり、聖人がこの命に従って数千万の人々にこれを聞かせ終わったところで目が覚めた、となっています。

そして、ごく初期の親鸞聖人伝である覚如上人(親鸞聖人のひ孫)製作の『親鸞聖人伝絵』では、この「夢告」を「妻帯の許可」ではなく、「後の聖人の東国での布教伝道を予言したもの」として扱っているのです。

果たして親鸞聖人は本当に性欲に苦しんで比叡山延暦寺を捨てて六角堂に篭ったのでしょうか。

ちなみに寺川俊昭先生は、

「当時の29歳と言えば決して若くないし、ひとかどの僧侶なら『色欲』などはとうに乗り越えている。
親鸞聖人は比叡山で『愛欲』よりもむしろ『名利』の煩悩にこそ苦しまれたのではないか。」

と仰っておられました。

つまり官僧としての栄達も、俗世間(公家社会)同様、その出自によって決まってしまうのが、当時の比叡山の状況だったのではないでしょうか。

後年の著作等から見る限り、比叡山時代の親鸞聖人は相当優秀かつ真摯な学僧だったのでしょう。
しかし、日野家という下級貴族のそれも傍系の出身であるために、その才能や努力が(官僧としての栄達という形で)正当に評価されなかった。

そのような不満・不遇感を懐きながら、聖人は同時に、名利栄達、同僚との競争意識に心悩ませる自分への嫌悪感も抱えていた。
しかし、日々の修行(天台止観)は聖人のそういった煩悩を少しも解消してはくれなかった。

20年に及ぶ修学の末に残ったものは、「いずれの行も及び難き我が身」への絶望感と叡山仏教への疑いだけ。
それらが相俟った末に疲れ果てて比叡山を下りて六角堂に籠ったのが29歳の若き親鸞(範宴)だった、と私は寺川先生のこの言葉を了解したのですが。

(12月5日)


【追 記】
残念ながら上記の「動画」は削除された模様で現在視聴できません。

(2017年3月7日)

 
 

親鸞聖人は「公然と妻帯」されたのか?


教えてエライ人。

「親鸞聖人は僧侶でありながら初めて公然と妻帯した」

いうフレーズを良く眼(耳)にするのですが、この“公然と”というのは具体的にどういう意味なんでしょうか?

「親鸞「4つの謎」を解く』の著者である梅原猛氏にしろ、

「他の法然の弟子が密かに既成事実として結婚していたのに対して親鸞だけは公然と結婚することを表明した」(37頁)

と書いておられるのですが、恩師寺川俊昭先生はこのような親鸞理解に大変批判的でした。

「『公然』というけれど、いったいどうやって『公然と結婚を表明した』のでしょうか。
披露宴をしたり、婚姻届けを出したり、挨拶状を配ったりでもしたというのでしょうか。
そもそも当時は「戸籍」自体がありません。」

(ちなみに荒木門徒系の伝記である『親鸞聖人御因縁』では、

「九条法皇は、法然上人の推薦で婿と決まった親鸞聖人を自分の牛車に同乗させ、法然の禅坊から五条西洞院の自分の宮殿まで連れ帰り、娘玉日の宮と娶わせた。」
「三日後、親鸞と姫は夫婦で同じ牛車に乗って黒谷〔実際は吉水〕の法然上人の禅坊に向かった。」

とあり、まるで都大路を夫婦でパレードでもしたかのように描かれています。)

また、

「承元の法難で還俗させられて(35歳)以降の親鸞聖人はもはや正規の「僧」(官僧)ではなく、あくまで「沙弥」(僧形の在家者)ですから、それ以降の結婚であれば、厳密には「僧の妻帯」とは言えません。」

ともおっしゃっていました。

 
 
 

この『親鸞「4つの謎」を解く』で梅原氏が

「自分にとって積年の課題であった親鸞の生涯における「4つの謎」
(1)たった9歳という年齢で比叡山の天台座主慈円に弟子入りしたのはなぜか。
(2)なぜ29歳の比叡山のエリート親鸞は、慈円のもとを去り、栄誉にも権勢にも無縁な法然門下に入ったのか。
(3)なぜ親鸞は結婚したのか。
(4)親鸞にみられる異常なほどの悪の自覚、殺人を犯す悪人に自己を重ねてやまない自意識はどこからくるのか。
が『正明伝』を読んですべて解けた。」

と推奨しておられる親鸞聖人の伝記『親鸞聖人正明伝』(しんらんしょうにん・しょうみょうでん)ですが、文和元年(1352)、存覚上人(親鸞聖人の玄孫)が制作したと記されてはいるものの、初めて世に知られたのは、江戸時代中期の享保18年(1733)、真宗高田派の五天良空によって出版された時でした。

現在、上記の梅原猛氏を始め、歴史学者の松尾剛次氏、真宗大谷派の佐々木正氏、浄土宗西山深草派の吉良潤氏らが、史実としての玉日姫(九条兼実の娘)との結婚を伝えるものと再評価しておられますが、刊行当初から「出版者良空による偽作である」との批判が付きまとっていました。

それゆえ、前掲のような梅原氏の評価も、私からすれば、

「『正明伝」成立当時の人たちが等しく抱いていた疑問に答えるべくストーリーが創作されたのだから当然そうなるだろうし、当時の人たちも現代の私たちと似たような関心を抱いていた証拠ではないのか。」

としか思えないのです。

(1)『正明伝』は、親鸞聖人の妻である恵信尼公の『書簡』が伝える、
「親鸞聖人は、六角堂百日参籠の95日目の暁の「夢告」によって、法然上人の許を尋ね、その弟子となった。」
という立場を取っておらず、聖覚法印の導きによって、参籠途中の建仁元年(1201)3月14日に法然上人を尋ね弟子入りしたにもかかわらず、その後も参籠を続け、4月5日に夢告を得た、としています。(巻1下~2上・『真宗資料集成』7・102~4頁)
存覚上人の真作である『歎徳文』は、親鸞聖人の吉水入門を
「特に歩みを六角の精舎に運びて、百日の懇念を底すの処に、親り告げを五更の孤枕に得て、数行の感涙に咽ぶ間、幸いに黒谷聖人吉水の禅室に臻りて、始めて弥陀覚王浄土の秘扃に入りたまいし……」
と記しています。
『歎徳文』のこの文は、「歩みを六角の精舎に運びて、百日の懇念を底すの処」(六角堂に100日間参籠したところ)、その結果「親(まのあた)り告げを五更の孤枕に得て……幸いに黒谷聖人吉水の禅室に臻(いた)りて」と、明らかに「六角堂での「夢告」を経て法然上人の許を尋ねた」と記していますが、これに対して『正明伝』の記述は、「歩みを六角の精舎に運びて、百日の懇念を底すの処に、親り告げを五更の孤枕に得て、数行の感涙に咽ぶ間」を「六角堂に100日間参籠して「夢告」を授かる『までの間に』」と読んで、「参籠期間の途中で法然上人を尋ねた」とする、かなり強引な解釈の上に成り立っています。
(2)『正明伝』には、
「応長・正中年中に聖人面授の弟子である高田派第四祖専空が上洛した折、存覚が岡崎の旧房・善法院において授けられた親鸞伝を記した」(巻1上・同上・100頁)
とあるにもかかわらず、存覚上人自身が自らの行実を著した『存覚一期記』にはそのような記録はありません。
また、高田派第四祖専空上人は正応5年(1292)の生まれですから、弘長2年(1263)に亡くなった親鸞聖人の「面授」(直接対面して教えを受けた弟子)であるはずもありません。それどころか、正応3年(1290)生まれの存覚上人からすれば2歳年下にあたります。いくら専空上人が顕智上人の死去(延慶3年・1310、85歳)に伴いすでに高田の道場を継承していたとしても、とても史実とは思われません。
(3)『正明伝』は「聖人は幼くして父母と死別した」と記していますが、西本願寺には存覚上人が
聖人の父日野有範の中陰が勤まった折に聖人の弟兼有律師が訓点を加え外題を聖人が書いた経本を、「正平6年(1351)12月に自分が写した。」
と記した『大無量寿経』上巻の写本が現存しており、存覚上人は聖人の父が早世してはいないこと、息子たちが経文に加点できる年齢に達するまで存命であったことを知っておられたはずである。

などの点から、私は「『正明伝』は後世の偽作である」と考えています。

(もっとも、「直観の人」である梅原氏からしてみれば資料批判など関係なく、「自分が真実だと感じたからそうなんだ」でお仕舞いでしょうし、松尾氏のように「『正明伝』は偽作だが史実を伝えている部分もある」として、3つの夢告や玉日姫伝説は―どういう根拠に基づいてかはわかりませんが―史実と扱われる方もおられます。)

ただ、草野顕雄先生などは、梅原先生らとは違い、玉日姫伝説は荒唐無稽であり、親鸞の妻は恵信尼一人であって、吉水時代に結婚して少なくとも子供がひとりはいた、としてはおられるものの、

「(親鸞流罪の罪状について)吉水時代に親鸞が公然と妻帯していたことが罪に問われたのはないかと考える」(『シリーズ親鸞〈第6巻〉 親鸞の伝記―『御伝鈔』の世界』・121頁)

として、聖人の吉水時代の「公然の妻帯」を承元の法難での越後流罪の原因と考えておられるようです。

梅原先生は「「他の法然の弟子が密かに既成事実として結婚していた」とおっしゃっていますが、「密かに既成事実として結婚していた」のは法然上人の弟子に限った話ではありません。
当時は仏教界全般がすでにそういう状態でした。

例えば、『古今著聞集』巻16に「高倉宰相茂通と栄性法眼との交遊の事」という一段(第576段)があり、栄性法眼とその愛人の尼の話が載っています。

「後嵯峨院の御時、亀山殿の御所の比(ころ)……
彼の栄性法眼は忍びて、ある尼をかたらいて持ちたりけり。
同宿はしながら、さすがにおなじ所にはおかで、中一間を隔ててぞすまいける。
此の事のしたくなりける時は、ひる中にも.……」

とあって、登場人物は「法眼」の僧位を持つれっきとした「官僧」(国家公務員としての僧)で、「忍びて」、つまり一応は隠してはいたんだけれど、「同宿」、つまり一緒に住んでいて、しかもこの文の後にはその「性癖」までが書かれていて、それらが後世に伝わるほど当時世間に知れ渡っていた。
(……こういうのを「公然の秘密」というのではないでしょうか。(-_-;)

にもかかわらず、聖人が流罪になった理由は「公然と妻帯した」ことなのでしょうか。

しかも親鸞聖人は当時、僧籍こそ残ってはいたもののすでに「官僧」から「遁世」(ドロップアウト)した一介の「念仏聖(ひじり)」に過ぎません。
バレバレではあっても一応隠そうとした「官僧」はお咎め無しで、隠さなかった「聖」は厳罰の対象だったのでしょうか。

ところで、「公然の妻帯」説を採られる方は、聖人の妻恵信尼公の出自はどう考えておられるのでしょう。

恵信尼公の父が公家の三善為教(則)だったとしたら、「公然の妻帯」を罪に問われた婿を持った義父には何のお咎めも無かったのでしょうか。

(ちなみに、ここで言う「お咎め」とは、直接の刑罰ではなく、公家としての官位の降下やその後の出世栄達への影響と言う点でのそれです。

何せ、聖人の祖父日野経尹が「放埓の人」の烙印を押されたのは、ご自身の落ち度ではなく、岳父が妻の不倫相手に惨殺されたスキャンダルによるという説もあるぐらいで、当時の公家社会というのはきわめて陰湿な、足の引っ張り合いが日常の集団だったそうですから……)

(5月11日)

 
 


謹 賀 新 年

なにごとも  あなたまかせの  旅なれば
        我とはからう  ことなかりけり

(西元 宗助)

なにごとも  あなたまかせの  旅なれど
        我とはからう  ことばかりなり

(自作)


旧年中の御厚誼に深謝し、本年も宜しく御指導の程お願い申し上げます。

(2016年1月1日)

 
 

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