法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2011年7〜12月分)

 

 
 

もしかして「痛車」!?
 

 朝、山門を出てみると、門前の「法勝寺町駐車場」に何やら不思議な模様のクルマが……。

 

 

 

「なんだ、こりゃあ?
 これが噂の「痛車」(イタシャ)ってやつか?」

と、よくよく見ると、ボディに描かれているのは米子市の公式マスコット「ヨネギーズ」(……最近、赤ん坊 (ネギポ)が生まれたそうです)

 

 

 

「市の情宣カーか?
 それにしても何だってこんな所に……」

小首をかしげながら家に帰って、新聞を開いて……、納得

「米子市中心市街地で11月から来年2月まで太陽光エネルギーを活用した電気自動車(EV) のカーシェアリング実証実験が始まる。市は26日、実験に使うEVを同市法勝寺町の商業施設「善五郎蔵」前で初公開した。同市のイメージキャラクター「ヨネギーズ」をあしらっており、一般に無料で貸し出す。……一般貸し出し用のEVは法勝寺町の「菊屋」跡駐車場に配置する。
 公開された一般貸し出し用のEVは、日産自動車「リーフ」の車体を緑と白のツートンカラーに染め、ヨネギーズをあしらった。……」                    
            (10月27日付「日本海新聞」20面)

 この記事の「法勝寺町の「菊屋」跡駐車場」というのがまさしく山門前のココなわけで……。
 娘によれば昨日の夕方からもう停っていたそうな。
 (「痛車」じゃなかったのね。)

 「一般貸し出し用」か。
 ということは申し込めばワタシも乗れるわけか。

 ハイブリッドカーの次はEV。
 目指すは「エコなお坊さん」!?

 でも、いくらなんでもこのペイント車で宅法事にお伺いするわけにもねぇ〜(爆)

(10月27日)

 
……と思ったら、ちゃんとおとなしめのデザインのもありました。

 


右側にあるのが、ガソリンスタンドならぬ
「充電スタンド」
 

 
 

Let's まちおこし
             ― 「米子映画事変」―
 

 当コンテンツのいちばん下 ☟ (7月30日付「日記」)でも紹介していました地域振興イベント「米子映画事変 」が一昨日23日から本日25日までの3日間(何と秋のお彼岸の真っ只中(-_-;))、本通り商店街・元町サンロ―ド商店街他の会場で開催されました。

 期間中に開催された各種イベント等については「映画事変」のウェブサイト他で御覧いただくとして、こちらでは開催中の風景を携帯写真でまったりとご紹介したいと思います。

 まずは、本通り商店街にドーンと吊るされた


「大量旗」

(製作したのは地元商店街の〇〇染物店だと思いますが、もし間違ってたらヤバイので商店名はヒ・ミ・ツ)
 


 続いては、通りのそこかしこで見られた


「イラスト立て看板」
(通称「ステカン」)

(「カン」は「看板」だとしても「ステ」はいったい何?)

 


コチラが全身像

(キャラの名前が出てこない!)
 


 作者はプロ・アマ・素人を問わず、参加費を払えば誰でも自慢の腕を披露することができ、その一部は東日本大震災の復興支援金に充てられるのだとか。(ステカンCANVASプロジェクト)

 おかげで、時々私でさえ名前を知っている有名漫画家のイラストが紛れていてビックリ。
 

 こちらの店舗では、特撮映画「ネギマン」で実際に撮影に使用したジオラマや模型が展示中。

 


これぞ「上から目線」

(ネギマンになった気分!?)
 

 


戦車の模型

(あまりのリアルさに子供たちも驚いていました。)
 


 最後は山門前の法勝寺町駐車場(元菊屋跡地)で行われた「松江だんだんプロレス」(島根県松江市の社会人プロレス団体)の試合。
(画像は試合後の子供たちとの交歓風景です)

 

 


 まさか寺の門前で生のプロレスが観れる時代が来るとは……。
(実は私、小学生の頃、白黒テレビでジャイアント馬場のファイトを観て以来のプロレス・ファンです)

 ……とは言うものの、実際に観戦してみたら興奮するよりも何よりも、

(選手が怪我しなければいいが……)

 何せ、リングの下はブルーシートを敷いただけのアスファルト。(マットすらない……)
 下手に場外に転落でもしようものなら……(-_-;)

(ホント、いくら好きだからとは言っても、ハンパな気持ちで出来るこっちゃないよな〜、プロレスって)
 

 何はともあれ、「お彼岸」の合間をぬって、それなりに楽しませていただきました。
 ありがとうございました。

 スタッフ・出演者・関係者のみなさん、お疲れ様でした。
 赤井孝美さん、来年もヨロシク、というのはちと無茶なお願いでしょうか……(爆)

(9月25日)

 
 

五木寛之先生。さすがです!!
    ― 「念仏して救われる」とは ―
 

 前回の「日記」(8月25日付)で、私は親鸞聖人御制作の和讃

弥陀大悲の誓願を
 ふかく信ぜんひとはみな
 ねてもさめてもへだてなく
 南無阿弥陀仏をとなうべし(「正像末和讃」)

を紹介し、親鸞聖人は「阿弥陀仏を信じさえすればもう念仏を称えなくてもよい」どころか、むしろ「阿弥陀仏を信じることのできた人はよりいっそう、積極的に念仏を称えなさい」と教えられているのではないか、と書きました。

 そう書きながら私は同時に、それではなぜ親鸞聖人が「よりいっそう念仏を……」と勧められたかについてうまく説明できないもどかしさを抱えていました。

 ところが、現在地元紙(『日本海新聞』)に連載中の五木寛之『親鸞〈激動篇〉』を読んでいた時、見事にそれを言い当てた表現に出逢いました。
 

 旧知の鎌倉武士香原崎浄寛に、

「さて、親鸞どの。
 こうしてうかがっておれば、どうやら念仏は、この世のことにはまったく役にたたぬもののようにきこえる。
 それでは一体、親鸞どのは、なぜ念仏をわれらにすすめられるのか。
 わかりやすく答えてもらいたい」

と尋ねられた親鸞は、

「わたしが念仏するのは、わが師法然上人を信じているからです。
 法然上人は、ただ念仏して救われよ、と教えられた。
 わたしは、その言葉にしたがって念仏し、こうして生きております」

と答え、

「それでは、親鸞どのは、念仏して救われたのだな」

との浄寛の重ねての問いにも

「はい」

と頷きます。
 その親鸞に対して浄寛は

「それはおかしい。
 法然上人は、念仏する者は浄土に往生うたがいなし、と教えられたときいておる。
 浄土往生とは、死後、浄土に生まれかわって仏をめざすことではないのか。
 いま生きているそなたが、この世で救われたというのは納得がいかぬ。
 これまでの話では、念仏は現世ではなんの役にもたたぬもののようである。
 死んだのちに地獄へおちることなく浄土へ往生する。
 それが、唯一の念仏の功徳というふうに思われるのだが、まちがいであろうか」

とさらに問い詰めます。

 それに対して親鸞は、9歳の時に体験した闇夜の比叡山での出来事を語り始めるのです。

 白河の寺に入って稚児僧として修行を始めてまもなくの頃、親鸞は比叡山の横川(よかわ)の宿坊まで荷物を届けるよう命じられます。
 夕方に白河を出発して、横川を目指し一路山道を登り始めたものの、途中で夜になり、雲で月も隠れてしまい、辺りは漆黒の闇になってしまったそうです。

 背負った荷物が肩に食い込んで体は思うように動かなくなる。
 草鞋も脱げて裸足となった指からは血が流れてくる。
 周りも見えない深い深い闇の中、一歩でも動けば崖から転落してしまいそうで、親鸞は動くことさえできなくなってしまいます。

 身動きもできず、叫ぶこともできず、恐ろしさの余り泣き出してしまったその時、雲間から月が現れ、青白い光で親鸞の周りを明るく照らし出しました。

 月の光に照らされて自分の居場所を知った親鸞は、山肌に沿った細い道を少しずつ歩き始め、やがて横川の宿坊の灯りを見つけ、無事目的地にたどり着くことができたのでした。

 その時の自分の経験を親鸞はこう語りました

「月の光があたりを照らしたからといって、背おっている荷物が軽くなったわけではない。
 遠くに横川の燈が見えたからといって、そこまでの道のりが近くなったわけではない。
 荷の重さは変わらない。
 歩く道も近くはならない。
 だが、わたしはたちあがり、歩きだすことができた」

 そして、物心ついて以来ずっと心に闇を感じながら生きてきた自身の半生を語り、

「法然上人に出会ったのは、そんなまっ暗闇のただ中にいるときだ。
 しかし、わたしは、ただ念仏せよ、という上人の言葉を、そのまま受けとることはできなかった。
 百日間ずっとその言葉をききつづけた末に、突然、月の光に照らされたような心持ちになったのだ。
 よいか、みなの衆。
 念仏をしても、背おった荷の重さが軽くなるわけではない。
 行き先までの道のりがちぢまるわけでもない。
 だが、自分がこの場所にいる、この道をゆけばよい、そしてむこうに行き先の燈が見える、そのことだけでたちあがり、歩きだすことができた。

 念仏とは、わたしにとってそういうものだった。

と話を締めくくったのでした。

(『親鸞〈激動篇〉』234〜238・要約)

 これを読んだ時、私は正直感嘆の吐息を洩らさざるを得ませんでした。

「やっぱり作家ってすげえ、五木寛之ってさすがだわ」

(いや、今更私ごときが申し上げる必要もないことは重々承知の上ですが……(-_-;))

 「言いたくてうまく言えない、伝えたくても伝えきれない」私のジレンマを、作家の表現力をもって見事に一刀両断して下さいました。

 私たちは「無明の闇」を生きる者、言わば闇夜に重き荷を背負って険しい山道を一歩一歩登らなければならない存在なのでしょう。
 そして、その事実は、私たちが本願を信じ念仏申す身となったとしても一つも変わらないのです。

 「光」に照らされて今さらながら「闇」の深さが知られてきます。
 「月の光」に照らされていなければ、たちまちに道を踏み外して谷底へ真っ逆さまに落ちてしまいかねない存在であると知れたからこそなおさら、目的地に到着するその時まで 、私たちは「月の光」を仰ぎ続けていかなければならないのではないしょうか。

 弥陀の本願に出遇い、それを信ずる者となったからこそ、

弥陀大悲の誓願を
 ふかく信ぜんひとはみな
 ねてもさめてもへだてなく
 南無阿弥陀仏をとなうべし

とひたすら念仏して、終生本願を憶念し続けねばならないのでしょうし、その「光」に対しては

大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり。(『教行信証』「行巻」)

無明長夜の燈炬なり
 智眼くらしとかなしむな
 生死大海の船筏なり
 罪障おもしとなげかざれ(「正像末和讃」)

とその名を称え、褒め讃えないわけにいかないのでしょう。

 「救い」とは「光に出遇えた」ことであって、決して「光を必要としない身になった」ことではありません。

 「正信偈」には、

摂取心光常照護  (摂取の心光、常に照護したまう。
已能雖破無明闇   すでによく無明の闇を破すといえども、
貪愛瞋憎之雲霧   貪愛・瞋憎の雲霧、
常覆真実信心天   常に真実信心の天に覆えり。)

とあります。
 「信心さえ得ればもう念仏をとなえる必要がない。もう救われているから」というのは大きな「勘違い」、もしくは甚だしい「思い上がり」と言わなければな りません。

 ただし、「正信偈」はその後に、

譬如日光覆雲霧  (たとえば、日光の雲霧に覆わるれども、
雲霧之下明無闇   雲霧の下、明らかにして闇(くら)きことなきがごとし。)

と続いていますし、同じ「正信偈」のいわゆる「源信章」には、

極重悪人唯称仏  (極重の悪人は、ただ仏を称すべし。
我亦在彼摂取中   我また、かの摂取の中にあれども、
煩悩障眼雖不見   煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、
大悲無倦常照我   大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり。)

とあります。

貪愛(むさぼり、渇愛・執着)・瞋憎(いかり、にくしみ)の煩悩の「雲霧」に覆われて「光」を見失って生きていても、常に私を照らして倦むことのない大悲が、仰ぐべき「光」がこの私には注がれている。

 この「気づき」(目覚め)が、言うなれば親鸞聖人が教えて下さった「念仏の救い」ではないでしょうか。

 前回私は、番組解説者の「信心」理解を問題にしましたが、同時に「救い」という言葉が番組においていかなる意味で用いられているのかをも問題にしなければならなかったわけです。

 最後にもう一つ、蛇足的に付け加えれば、念仏に賜る利益(りやく)を語った親鸞聖人の

念仏者は、無碍(むげ)の一道なり。

という言葉が『歎異抄』第7章に伝えられています。

 この「無碍(さわりがない・何ものにも妨げられない)」の語から、私たちは安直に「ひとたび信心を得ればその後はこの世の中を自由自在に 、それこそ大手を振って生きていける」ような「救い」をイメージしがちですが、実際はそうではないのでしょう。

 寺川俊昭先生はこの言葉を次のように解説しておられます。

「「無碍の一道」といっても、ブルドーザーが通るような感じとは違いまして、安田(引用者注・理深)先生風の言葉でいえば「顔をしかめながら利益を受けているのだ」、あるいは「乗托妙用の自覚(引用者注・清沢満之の用語)に立って、穢土に堪えるのだ」、こういう複雑な利益の実感であったかと思います。」(『自己とは何ぞや ―大谷派なる宗教精神―』312〜3頁(無量塾・2010年))

(9月23日)

【追 記】

 全くの偶然ですが、この「日記」を書いたわずか4日後の9月27日の紙面に掲載の『親鸞 〈激動篇〉』に次のような文(小説中の親鸞の言葉)が載りました。

「心の闇は、いったん晴れたように見えても、すぐにまた曇る。
 空模様と同じことだ。
 念仏して晴れたかと思えば、たちまち嵐になり、闇にとざされる。
 だからそのときまた念仏する。
 人の心は揺れ動くものだ。
 だからくり返し念仏をする。

 いったん信心がさだまったら、もう二度とゆるがない、そんな人は一度の念仏でもよいであろう。

 しかし、われらは凡夫(ぼんぶ)である。
 絶えず心はゆらぐ。迷う。くじける。
 念仏はそういう凡夫の心を、そのつど立ち直らせてくれる光の知らせではないか。
 わたしは、そんなふうに考えてきた。

 法然上人は、絶えず念仏をなさっていた。
 そのことについて、いくどかおたずねしたことがある。

 あるとき法然上人は、こういわれた。

自分は弱い、おろかな人間だからだよ、

と。

心がつねに揺れ動く。
いったん信じてもすぐ迷う。
だからそのつど念仏が口をついてでてくるのだ。
おい、おい、どうしたのだ、と、阿弥陀さまが呼びかけておられるような気がするのだよ、

と、そうおっしゃった。」

(『親鸞〈激動篇〉』263)

 もしこの「日記」のアップがあと数日遅ければ、最初っから最後まで五木さんの受け売りにな ってしまうところでした。(危ないところだった.。( ; -_-)=3。)

 

 
 

親鸞は「念仏をとなえなくてもいい」と言ったのか?
 

 NHK総合TVで6月15日に放送された「歴史秘話ヒストリア『人はみな、救われるべきもの〜法然と親鸞 探求の道〜』」、昨日、遅ればせながら観ました。
 6月の放送を見逃し、再放送、再々放送とスルーし続けてやっと……(-_-;)

 法然上人800回忌・親鸞聖人750回忌に併せたということもあるのでしょうが、お二人が別々に取り上げられるのではなく、「師弟として一つの仕事を成し遂げていった」という視点で番組が制作放映されたことがあったかな〜?と興味深く視聴しました。

 ……とは言え、その放送内容のすべてに諸手を挙げて賛成、というわけにはいきません。

 偉大な宗教者の生涯を描こうとする場合、いろいろな伝説やら学者の説がある中、それを取捨選択し、なおかつさまざまな批判やクレームを予想(覚悟?)しなければならないという制作者側の苦労もわからないではないのだけれど……、それでもやっぱり一言半句に過敏に反応してしまうのが「真宗坊主」としてのワタシの「業(ごう)」なのでしょうか……。

 つまりはそれが、タイトルに挙げた「親鸞は『念仏をとなえなくてもいい』と言ったのか?」なのです。

 番組中盤の32分過ぎ、法然と別れて越後(新潟県)に流刑になった親鸞が、罪を許されても京都には帰らず関東に向かい、都とは異なる世界で専修念仏(せんじゅねんぶつ)の伝道につとめようとした、として水戸市真仏寺に伝わる「お田植え歌」が紹介された後のことです。

(以下、ナレーション)
自然と共にあるがままに生きる人々と接する親鸞。
やがて独自の考えにたどり着きます。

布教の傍ら親鸞が自らの思想を記した『教行信証』、その一節です。

「阿弥陀仏がすべての人を救ってくださるという誓いを聞き、それを信じるまさにその時、極楽往生が確定する」※1

念仏をとなえるだけで救われるという専修念仏。
親鸞はそこから

「必ずしも念仏をとなえなくともよい
 阿弥陀仏にすべてゆだねるのであれば、それを信じるだけでよい。」

としたのです。

(宗教評論家ひろさちや氏のコメント)
「法然上人の教えは、念仏をもって本とする、と。
 念仏をとなえることが大事なんだと言われたわけであります。
 しかし、親鸞聖人はもう念仏もとなえないでいいんだ、阿弥陀仏を信じる信心がもと なんだと変えられた
 もう救われているんだから、阿弥陀様にお任せした瞬間に救われているから。」

(再びナレーション)
人は阿弥陀仏を信じた瞬間にすでに救われている。
ならばその救われた人生を、日々の悩みや苦しみを受け入れた上でどう生きるのか。
親鸞の教えに従う人々は確実に増えていきました。

 さて、ここで問題なのですが、親鸞聖人ははたして本当に法然上人の専修念仏の教えを「念仏もとなえなくていい。阿弥陀仏への信心がもとだ」、言い換えれば「阿弥陀仏を信じさえすればもう念仏をとなえなくてもいい」と変えたのでしょうか?

 親鸞聖人御制作の和讃に次のような一首があります。

弥陀大悲の誓願を
 ふかく信ぜんひとはみな
 ねてもさめてもへだてなく
 南無阿弥陀仏をとなうべし(「正像末和讃」)

 この御和讃によれば、親鸞聖人は「阿弥陀仏を信じれば念仏をとなえなくてもよい」どころか、むしろ「阿弥陀仏を信じる人は積極的に念仏をとなえなさい」と教えられているのではないでしょうか。

 親鸞聖人は関東時代、「上人の二十五日の御念仏(おんねんぶつ)」として毎月、法然上人の御命日である25日に念仏の法会・集会を開いておられましたし、そこに集う人たちを「専修念仏のともがら」(『歎異抄』)と呼んでおられました。
 また、京都に帰った後にその人たちから贈られてくる志の銭を「念仏のすすめもの」と呼んで感謝しておられます。
 聖人の曾孫の覚如上人は聖人の御臨終を「念仏の息が絶えた」(『御伝鈔』)と表現し、その90年の御生涯を「念仏の御一生」と位置づけられました。※2

 これらの親鸞聖人のお言葉や行実のいったいどこから「親鸞は『念仏をとなえなくてもいい』と言った」というフレーズが導き出されるのでしょうか。

 番組の前半、法然上人の専修念仏について次のように解説したナレーションが流れます。

出家から28年、法然43歳、運命的な考え方にたどり着きます。
中国唐代の高僧善導が記した一文です。(善導『観無量寿経疏』)

「一心にもっぱら阿弥陀仏の名号を念じよ。
 歩いていても座っていても、横になっていても構わない。
 時間や場所に関係なく、念仏をやめないこと、これは阿弥陀仏自身が選んだ、必ず極楽浄土にいくことができる行いなのである 。」※3

南無阿弥陀仏。
「南無」とはすべてをゆだねる。
阿弥陀仏にお任せしますととなえることが、阿弥陀仏自身が選んだ極楽浄土にいける行いだと言うのです。

阿弥陀仏自身が“選んだ”とはどういう意味か。

そもそも阿弥陀仏が極楽浄土を作ったのは、すべての人々を救うためだと言われています。
“すべての人々を救いたい”というのが阿弥陀仏のもともとの願い、つまり「本願」であるならば、その阿弥陀仏にすべてをお任せすることが、もっとも叶ったやり方だという ことなのだ。

法然の悩みが晴れ渡ります。

「人は皆、仏の前では至らぬ存在「凡夫」にすぎない。
ならば寄贈や寄進など自らの力で解脱を目指すよりも、「阿弥陀仏におまかせする」ととなえることこそ本来の救われる道だ。」

念仏をとなえさえすれば誰でも極楽浄土に行けるという「専修念仏」。
これまでにない画期的な思想でした。

 このナレーションに従えば、法然上人の「念仏」とは、すべての人々を救いたいという阿弥陀仏の本願に南無する―すべてをゆだねお任せする、つまりは「信じる」―ととなえる念仏ですし、親鸞聖人の「信心」とは、すべての人々を救いたいがために念仏を極楽浄土に行ける行いとして選んだ本願を信じて阿弥陀仏にすべてをゆだねることに他なりません。※4

阿弥陀仏が往生の行として念仏を選んだ本願にしたがってひたすら念仏する。(法然)

阿弥陀仏が往生の行として念仏を選んだ本願を疑いなく信じて念仏する。(親鸞) 

 親鸞は法然を「変えた」のではなく、法然が「行」に力点を置いて語った事柄を「信」に力点を置いて語ったという、師弟それぞれが置かれた時代状況の違いに起因する「視点の違い」と理解すべきではないでしょうか。
(「阿弥陀仏を信じさえすれば念仏しなくてもいい」と言われる場合の「信心」とはどのようなものなのか、何をどう信じる信心なのか、むしろ 詳しくお尋ねしたい気がします。)

 確かにかつては「法然は念仏為本、親鸞は信心為本」という定型化した了解の図式がありました。
 しかし、だからと言って、「親鸞独自の考え」とか、「法然を変えた」とか、「念仏をとなえなくてもいいと言った」といった表現は、生涯「法然上人の弟子」を自認しておられた親鸞聖人がお聞きになればむしろ「激怒」されるような「言い草」ではないでしょうか。

(そもそも「信じさえすればいい」と言うその「本願を信じる」、番組で言うところの「阿弥陀仏にすべてをゆだねる」信心の発起がどれだけの「難事業」であることか……。
 法然上人・親鸞聖人の長い長い求道の歩みを今更引き合いに出す必要もないでしょうが……。)

 また、法然上人・親鸞聖人の在世中、専修念仏に関する「異義」として「一念義」が流行しました。

 聖覚法印の『唯信鈔』によればその人たちは、

「往生浄土の道には信心こそが第一であって、信心を獲さえすればそれ以上念仏の必要はない。それ以降に念仏を重ねることはむしろ阿弥陀仏の本願を信じていない証拠だ」と主張して、数多く念仏する人を嘲り誹った。※5

のだそうで、法然上人・親鸞聖人御両名とも厳しくこれを諌めたというお手紙が残っています。

 前掲の「阿弥陀仏を信じさえすれば、すでに救われているからもう念仏をとなえなくてもいい」という言葉と酷似していると感じるのは私だけでしょうか。

 ひろさちや氏の上記のコメントの直後には、

人は阿弥陀仏を信じた瞬間にすでに救われている。
ならばその救われた人生を、日々の悩みや苦しみを受け入れた上でどう生きるのか。

というナレーションが続きました。

 「人は阿弥陀仏を信じた瞬間にすでに救われている」としても、阿弥陀仏の願いに感動し救済を実感する瞬間を体験したとしても、永遠にその「救い」の実感の中、歓喜の中で生きていけるわけではありません。
 絶え間なく襲い来る日々の出来事や難題の中でもがき悩み苦しみ、かつての体験は夢幻ではなかったかと思うことすらあるそんな日々を、人はどう生きるのか。

 そこにこそが親鸞聖人が、

弥陀大悲の誓願を
 ふかく信ぜんひとはみな
 ねてもさめてもへだてなく
 南無阿弥陀仏をとなうべし

と念仏の相続を勧め、自らの念仏の声を聞くことを通して「南無阿弥陀仏」の言葉に託された阿弥陀仏の願いに繰り返し耳を傾けよ、と語りかけて下さったことの意味があるのではないでしょうか。
 

……あ、「番組製作も大変だ」とか言いながら、思いっきし批判してしまった。

「NHKがどんな番組を放送しようが、知ったかぶりの評論家が何を言おうがほうっておけばいいじゃないか、こっちも暇なわけじゃないんだし 」と思わないこともないんだけれど……、やっぱり言わずにはいられない。(-_-;)

親鸞学徒の「性(さが)」と言うより「ほとんどビョーキ」と言うべきかな、ワタシの場合……。(;-_-)=3

(8月25日)


※1「信巻」引用『大無量寿経』の文

本願成就の文、『経』に言わく、
諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。
至心に回向せしめたまえり。
かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。
ただ五逆と誹謗正法とをば除く、と。已上

※2 覚如『本願寺聖人伝絵(御伝鈔)』

聖人弘長二歳 壬戌 仲冬下旬の候より、いささか不例の気まします。
自爾以来、口に世事をまじえず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。
声に余言をあらわさず、もっぱら称名たゆることなし。
しこうして同第八日午時、頭北面西右脇に臥し給いて、ついに念仏の息たえましましおわりぬ。
時に、頽齢九旬に満ちたまう。

※3『觀經四帖疏 散善義』

一心に彌陀の名號を專念して、行住坐臥、時節の久近を問はず、念念に捨てざる者は、是を正定の業と名く。彼の佛願に順ずるが故に。

※4『親鸞聖人御消息集(広本)』第14通

信の一念、行の一念、ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。
そのゆえは、行と申すは、本願の名号をひと声となえて往生すと申すことを聞きて、ひと声をもとなえ、もしは十念をもせんは行なり。
この御ちかいを聞きてうたがう心の少しもなきを信の一念と申せば
、信と行とふたつと聞けども、行をひと声すると聞きてうたがわねば、行をはなれたる信はなしと聞きて候う。
また、信はなれたる行なしとおぼしめすべく候う。
これみな、弥陀の御ちかいと申すことをこころうべし。
行と信とは御ちかいを申すなり。

※5 聖覚『唯信鈔』

念仏を信ずる人のいわく、
往生浄土のみちは、信心をさきとす。
信心決定しぬるには、あながちに称念を要とせず。

『経』(大経)にすでに「乃至一念」と説けり。
このゆえに、一念にてたれりとす。
遍数をかさねんとするは、かえりて仏の願を信ぜざるなり。
念仏を信ぜざる人とて、おおきにあざけり、ふかくそしると。

 
 

街角の風景
             ― 法勝寺町商店街「だらず夜市」―
 

 恒例の御近所ネタで申し訳ありませんが……

 アーケードが撤去された法勝寺町商店街は現在、花あり、芝生あり、ベンチありの落ち着いた―と、思いきやオリジナルの「七福神」や「ビリケン」さんまでいらっしゃるという何だかよくわからない―遊歩道空間に変貌しております。
 

 

 

きれいないレンガ風に舗装された通り

 


「ほっしょうじ七福神」の一体
長寿の神「はっちゃん」
 

 


何回撮ってもピントの合わない
「ビリケン」さん
 

 

季節の風物詩
「七夕飾り」


何とも怪しげな
「DARAZ自販機」
 


 さて、この商店街で、往年の「土曜夜市」の活気を取り戻すべき第一歩として、今夏よりの新企画

「だらず夜市」

がスタートしました。

 とは言うものの、昭和26年から始まったかつての「土曜夜市」(昭和48年から「土曜市」に改称)が「ひと晩に米子市近郊から数千人を集客して売りまくる 」といった右肩上がりの高度経済成長期を具現したものだったのに対して、この「だらず夜市」は 「ゆる店」、商売よりもむしろ個人の趣味を披露しつつ、新しいコミュニケーションの場所にしようというのがコンセプトのユル〜イ企画。

 まだまだ規模は小さいもののそれなりに賑わっておりました。( v^-゜)♪
 

 


「だらず夜市」の仕掛け人の1人。

言わずと知れた
イラストレーター兼紙芝居屋のわがイトコ

(しかし……、衣裳とは言いながら、このファッションだけは何とかならんもんかね 〜〜。(-_-;))

 

 

     


こんな出店(!?)もありました。
 


御時世でしょうな〜。
 


 先週23日(土)が記念すべき第1回、今週30日(土)が第2回目。

 次回第3回目は

9月24日(土)午後5時から

 23日(木)から25日(日)の米子映画事変とタイアップして開催の予定だそうです。

(7月30日)


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