法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2006年1〜12月分)
 

父と娘の信仰談議
            ― 「念ずるところに仏います」 ―

 ある朝のこと、お内仏にお参りしていた私を見て上の娘(小1)が、

娘「お父さん、何してただ?」(以下、米子弁)
私「ん?お勤め。」
娘「何て言ってただ?」
私「なんまんだぶつ(南無阿弥陀仏)。」
娘「なんで(そう言うの)?」
私「だってほら、(ご本尊を指差しながら)阿弥陀さまだから。」

娘「阿弥陀さんってどこにおるだ?」
私「西方極楽浄土!」
娘「……? どこにあるだ?」
私「……はるか宇宙の彼方。」

娘「阿弥陀さんって死んどるだ?」
   (どうやら彼女はお内仏にいるのは「死んだ人」だと思っているらしい。)
私「死んでない。生きとる。」
娘「阿弥陀さんって何歳?」
私「……十劫(じっこう)。」
娘「……? 十劫って?」
私「……ものすごく、ものすご〜く長い長い間。」
娘「……? 阿弥陀さんって死なんだ(標準語:死なないの)?」
私「うん、死なない。
  『無量寿(むりょうじゅ)』ってお経に書いてある。」
   (以上、『浄土三部経』「大無量寿経」の項参照)

娘「じゃあ、阿弥陀さんって『つくりもの』?」
私「へ…?」
娘「だって、死なんかったら『つくりもの』だがん。」
私「……(何と説明すればいいんだろう)」

 以上、この間仏間から洗面所、そして台所へと、歩きながら、用足ししながらの父と娘の「会話」でした。
(とにかく朝は忙しいのです。)

…………………………………………

 阿弥陀さまは「つくりもの」、虚構(フィクション)の「物語」でも、ただの「木像」でもないし、「とにかく無理やりでも信じればいい」というものでもないんだよ。
 でも 、「はじめに如来(仏)ありき」ではないのだから、「無量寿」の慈悲も、「無碍光・無辺光」の智慧も、「今」「ここ」に在る「私」に到り届いたということを抜きにして語っても 何にもならないんだ。
 「仏さま」に出遇ったことのない人には結局「つくりもの」、つまりは「いない」のと同じなんだよね。

「念ずるところに仏います」

 娘よ。この言葉の意味がお前にもいつか本当にわかる日がくるのかしら。
 

「吾人の世に在るや、必ず一(ひとつ)の完全なる立脚地(りっきゃくち)なかるべからず。もしこれなくして、世に処し、事をなさんとするは、あたかも浮雲の上に立ちて技芸を演ぜんとするもののごとく、その転覆を免るるあたわざること言(げん)を待たざるなり。
 しかれば、吾人はいかにして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや。けだし絶対無限者によるの外あるあたわざるべし。
 此(かく)のごとき無限者の吾人精神内にあるか、精神外にあるかは、吾人これを一偏(いっぺん)に断言するの要を見ず。何となれば彼の絶対無限者は、これを求むる人のこれに接する所にあり、内とも限るべからず、外とも限るべからざればなり。
 吾人はただ此のごとき無限者に接せざれば、処世における完全なる立脚地あるあたわざることをいうのみ。」(清沢満之「精神主義」)

(9月1日)

 
 

珍説・『清め塩』考

 作家嵐山光三郎さんの小説『よろしく』に次のような場面(シーン)が登場します。

 主人公(ぼく)が知人の葬儀に参列した帰途、友人の営む焼鳥屋に立ち寄り、まずは一杯、というその直前 、喪服姿をいぶかしがる友人にこう言って「清め塩」を断るのです。

「あ、塩なんかまかなくていいよ。
 人の遺体は汚いものじゃない。
 葬儀から帰ってきたとき塩をまくのは故人に対して失礼だ。」(集英社・2006/184〜5頁)

…………………………………………

 「清め塩』とは読んで字のごとく「清めの塩」。
 人の死によって発生した「ケガレ(穢れ)」(死穢・しえ)、葬儀に列なることによって伝染した「ケガレ」を祓(はら)い清めるために用いるものです。

 「ケガレ」とは、 人や動物の死や出産、女性の月経などによって発生する不浄(死穢、産穢、血穢等)で、特に神道においてタブー視(忌避)され、ケガレを負った人間は神域に立ち入ることも祭礼に参加することもできません。
 「物忌(ものいみ)」というのは、「触穢(しょくえ)」、つまり「ケガレ」に触れた人間が一定期間、家に篭ったり(忌篭・いみごもり)、祭礼への参加を遠慮して身を慎むことを言うのです。

 例えば、前年に葬儀を出した家はお正月の門松や注連(しめ)飾りを燃やす「とんどさん」行事に参加できませんし、以前、大阪府知事(女性)が表彰式のために大相撲の土俵に上がろうとして断られた理由もこの神道行事における「ケガレ」 の忌避によるものです。
 また、今から20年ほど前、私が有名な京都祇園祭の薙刀鉾(なぎなたぼこ)に上った時に、

「女性の方、物忌中・服喪中(過去1年間に肉親を亡くされた)の方はご遠慮下さい。」(取意)

という「但し書き(禁令)」(正確な文言は覚えていませんが)の木札が掛かっているのを目にして、「いまだにこんなことを言っているのか」と内心驚いた ことを覚えています。

 蓮如上人の『御文』にも、

「つぎに、物忌(ぶっき)ということは、わが流(筆者注:浄土真宗)には仏法についてものいまわぬといえることなり。……仏法を修行せんひとは、念仏者にかぎらず、物さのみいむべからずと、あきらかに諸経の文にもあまたみえたり。まず、『涅槃経』にのたまわく、……また『般舟経』にのたまわく、……」(第1帖第9通)

とあるように、仏教にはもともと「ケガレ」や「物忌」の思想はありませんが、明治の神仏分離まで長く続いた「神仏混淆(しんぶつ・こんこう)」のため、仏式の葬礼にまで神道儀礼が混ざり込んだ状態になっているのです。

 『日本国語大辞典』(小学館)には「けがれ(る)」の語源説が数多く紹介されていますが、私は「ケガレ」とは「気枯」―「気(生命力)が枯れる(減退する・枯渇する)」ではないかと考えています。

 「ケガレ」を発生する出来事(人や動物の死や出産、失火など)によって、その家の人間が意「気」消沈し、元「気」をなくし、時には病「気」となって続けざまに死んでいく。
 時にはそれがその家のみにとどまらず、共同体(村落)全体にまで広がっていく。
 「病原菌」「ウィルス」といった医学的知識をもたない昔の人は、それを得体の知れない、目に見えない「ケガレ(=気を枯らすもの)」の発生と考えたのではないでしょうか。

 共同体の存続を脅かした一連の出来事を逆上って見ると、どうやら「あの家」で起きた血や死にまつわる「あの出来事」を発端に始まっている。
 どうやらこれはあの家で発生した「ケガレ」が段々に村中に伝染していったものに違いない。
 したがって村の全滅を避けるためには、今度どこかの家で同様の出来事が起きた時には、一時的にその家・家族を一定期間「隔離」(外出を禁じる、村の行事・祭事に参加させない)して、もう大丈夫だと判断されるまで村の「日常」 、あるいは「行事(=祭事)」には復帰させないでおくのがよかろう。
 これがいわゆる「物忌」の始まりではなかったのでしょうか。

 だからこそ出産後の赤ちゃんの初めてお宮参りも「忌明(いみあき・いみあけ)」と呼ばれるのです。
 「出産」という言わば慶事に、「忌(いみ)」というマイナス・イメージを持つ言葉が用いられる ことに違和感を感じられた方もおられるのではないでしょうか。
 ちなみに上記の理由から、昔は出産のために母屋から離れた別棟に「産室」、「産屋」を設けたと言います。

 「物忌」とは、このような共同体の危機を回避するための、言わば経験から生まれた「知恵」ではなかったのでしょうか。」
 その証拠に「ケガレ」を祓うための「小道具」は、前掲の塩、水、酒、火といったいずれも消毒・殺菌効果の認められるものです。
 昔の人はこれもまた経験から学んだのでしょう。

 また、インドでは現在も右手を「聖なる手」、左手を「不浄の手」として食べ物を持つ手、汚物を取り扱う手として使い分けていますが、衛生的に見ると非常に理にかなっていると言います。
 お皿代わりに食べ物を盛ったバナナの葉は大変殺菌効果の高いものだとも聞きました。

 一見古い迷信と思われがちなこれらの習慣も、「衛生」、あるいは「共同体の維持存続」という観点からすれば実は大変に優れた「知恵」、庶民生活の中から発見された「知恵」であり、これがタブー(宗教的禁忌)ということになれば、誰もおいそれと破ることはできなくなります。

 このように庶民の知恵から生まれた「物忌」の風習ですが、やがて国家の法令(『延喜式』)にまでなり、「ケガレ」の種類やそれに伴う「忌」の期間までが細かく規定されることになります。

 このように考えると「ケガレ」の忌避は言わば当時の最先端の「科学」であったとも言えるのですが、中世日本においては、死に瀕した病人(使用人)が息を引き取る前に家の外に出す、つまり「捨てる」という行為が頻繁に行われたそうです。
 なぜなら病人が息を引き取ってしまえばその瞬間から「死穢」が発生するからです。
 それを防ぐためには一刻も早く遠くへ捨てなければならない。
 当時の人がどれほど「死穢」を恐れていたかを示す証拠であるとも言えますが、何ともやる瀬ない話です。
 当時の京都の鴨川の河原などはその捨て場所の代表であったと言われています。

 また、恒常的に「ケガレ」に触れ続けている人、「ケガレ」を祓い清めることのできない人への蔑視・差別もやがて生まれてきたと言います。(これが現代まで続く部落差別の起源であると言われています。)

 「日記」冒頭に引用した嵐山さんの「遺体は汚いものじゃない」という一言には、おそらくこのような「ケガレ」思想への抵抗が込められているものと思われます。

 「ケガレ」の忌避とは、現代的な医学知識のない時代にはそれこそ最先端の「科学知識」であったでしょうし、「防疫」等にそれなりに有効でもあったでしょう。
 しかし、医学の発達したこの現代において、いくら永年続いてきた習慣だからと言って、葬儀の折に遺族が『清め塩』を配り、会葬者がわが家に入る前に身に振りかけるということは、それこそ嵐山さんの言うがごとく故人の遺体を「汚いもの」=「ケガレ」の発生源と見做していることになりはしないでしょうか。
 それも遺族、会葬者(友人・知人)の双方が、です。

 自分の大事な家族、友人・知人の遺体を「ケガレの源」とのみ捉え、その人の死をとっとと忘れてしまいたい、眼前から消し去ってしまいたい「災厄」であるとのみ考える。

 そのような「在り方」「生き方」からそろそろ私たちは「卒業」しなくてはならないのではないでしょうか。

生きている
   ということは、
死ぬいのちを
   かかえている、ということ。
                (東井義雄)

(8月6日)

 
 

第1次反抗期

 『旧約聖書』「楽園追放」というエピソードがあります。

 神によって創られた人類最初の男女アダムとイヴが、神から食べることを禁じられていた「知恵の樹(善悪の知識の木)」の実を蛇の誘惑によって口にし、その途端、自らが裸であることに気づき、恥ずかしさからイチジクの葉で腰を隠すようになった。このことから神の怒りに触れた2人は 農耕・出産といった様々な苦しみを与えられてエデンの園(楽園)から追放され、以後人間は神の命に背くという「原罪」によって死という罰を与えられることとなった 、というものです。

 学生時代読んだ教育学者の林竹二(1906−1985)先生の著書によれば、この「楽園追放」の 神話は人間が知恵を持つ、自と他を分別し善と悪を分別するいわゆる分別知を持つことによって、世界との一体感を失い、孤独を覚え、死を恐れるようになるという、いわゆる「自我意識の芽生え」を象徴する 物語であるとされていました。

 さて、何故こんなことを長々と書いてきたかといいますと……

 うちの末娘(3歳)が現在「反抗期」なのです。それも強烈な……

「幼稚園行かない!」
「幼稚園行こうよ〜」
「ヤダ!」

「ご飯食べない!」
「そんなこと言わずに食べようよ。美味しいよ。」
「ヤダ!」

「ネンネしない!」
「ネンネしようよ〜、お父さんもう眠いよ〜。」
「ヤダ!起きとく。」

 ……ハア(ため息)

 一事が万事この調子。
 何かにつけて「イヤだ、イヤだ」を連発し、思い通りにならなければ大泣き、そしてやたら「抱っこ」と甘えてくる。

「なるほど、これが「第1次反抗期」というやつか。
 誰もが通る道とはいうものの……正直、かなわんな〜。
 お兄ちゃん、お姉ちゃんはここまでひどくなかったぞ、オイ。
 (もっとも、最近物忘れのヒドイ私のこと、実は忘れただけかも知れませんが……(^ ^;))」

と、少々疲れ気味デス。

  自己主張の始まりのようでもあり、親の愛情を試しているようでもあり、まるで失われつつある「世界と自分との一体感」を必死で取り戻そうとしているかのようでもあります。

 自我の確立を強固に要求しつつ世界から孤立することを恐れる。
 矛盾と言えば確かに矛盾ですが、こうやって人間はみんな「楽園」から追放されて「人間」(孤独な存在)になっていくのでしょうかね〜。

 そう考えると、それはそれで悲しいような、可哀想なような……
 早く大きくなって欲しいような、大きくならないで欲しいような……

 と、まあ、今はこうして子育てのネタでぐちっているこの私ですが、あと何年かしたら確実に子供に相手にされなくなっていたりして……。
 今度は「父親なんてさびしいものよ」とかぐちっている可能性はかなり高い……かな!?

(1月27日)

 
 

「お経って何が書いてあるの?」(その2)
                 ― 妙好人讃岐の庄松 
 

 下の欄(「お経って何が書いてあるの?」)で私は、

 ≫経典の現代語訳……、 
 
法要儀式の現代化……、
 
児童教化……etc。

う〜ん、「宗門」の課題は多い。

として「宗門(真宗大谷派)」という集団が組織ぐるみで、その「英知」を結集して(まあ「英知」なんてものがあるかどうかはこの際置いといて)、取り組まねばならない課題をいくつか挙げてみました。
(世間一般にはなかなか伝わらないけれど実際真剣に取り組んでおられる皆さんもたくさん居られるんです。)

 こう書きながらふと、「宗門」の課題はともかく、「私」の課題って何だろうか……と考えた時、妙好人(みょうこうにん)として高名な讃岐の庄松(しょうま)さん(1798−1871) のこんなエピソードを思い出しました。

 庄松がお手次ぎ寺(勝覚寺)の先代住職から可愛がられているのを妬んだある役僧が、文字の読めない庄松に恥をかかそうと、『大無量寿経』の下巻(「浄土三部経」のひとつ、上・下2巻ある)を手渡し、

「お前は有り難い同行じゃが、この『大無量寿経』の下巻の、ここのところを読んでみてくれ。」

と頼んだところ、庄松、お経を受け取りさらさらとめくって一言。

「『庄松、お前を助けるぞよ、助けるぞよ』と書いてあった。」

(『庄松ありのまま記』より)

 新羅の高僧憬興(きょうごう)師による『大経』の注釈書『無量寿経述文賛(じゅつもんさん)』によれば、『大経』上巻は広く「如来浄土の因果」を説き、下巻は 広く「衆生往生の因果」を顕わすとのことですから、庄松さんがたまたま手にした下巻はまさしく

「庄松(衆生)をたすける(往生させる)」

ことを説いた経文であったわけです。

 もちろん庄松さんがそんなことを知っているわけはありません。
 『大経』上巻であろうとも、『観無量寿経』、『阿弥陀経』であろうとも、おそらく同じように「庄松を助けるぞよと書いてある」
と答えたであろうとは思うのですが……

 いずれにしても、げに恐ろしきは「妙好人」の直観力。
 「『経典』を読む」(「お経に何が書いてあるかわかる」)とは、つまりこういうことなのでしょう。

 とどのつまり「私の課題」とは、具体的に何をどうこうする以前に、

「私が助かるか?」
「私が仏法をどう受け止めているか?」

を明らかにすることであり、それこそがあらゆる法務(寺院活動)の一番の根っこになくてはならない、ということなのかも知れません。

(1月24日)
 

※妙好人(みょうこうにん)

信行にすぐれた専修念仏者の総称。語源は善導の『観経疏』「散善義」による。法然・親鸞などは広く浄土願生者を妙好人と呼んだが、幕末に仰誓(ごうせい)の『妙好人伝』が出てから、とくに真宗の在俗の篤信者を指すようになった。著名な妙好人として、讃岐の庄松、因幡の源左、石見の善太郎や浅原才市などがいる。

                               (『総合仏教大辞典』(法蔵館))

 
 

「お経って何が書いてあるの?」
 

 あるお宅のご法事での出来事です。
 本堂で『阿弥陀経』と「正信偈(しょうしんげ)」のお勤めを終え、境内にあるお墓の前でお勤め(「勧衆偈(かんしゅうげ)」)していた時のこと、後ろの方から小さな子供の声が聞こえてきました。
 どうやらお父さんお母さんに連れられてお参りしていた兄弟の声のようです。

 弟(小学校1年生くらい)が、

「お坊さん、何て言ってるだ?」(米子弁)

と聞くと、お兄ちゃん(小学校3、4年生ぐらい)が、

「しーっ、大人になったらわかるけん。」

 (オ〜イ、しっかり聞こえとるぞ〜。)

……大人になったらわかる、のかな〜?
……多分、周りの大人の人もわからんと思うぞ……。

 経典の現代語訳……、
 法要儀式の現代化……、
 児童教化……etc。

 う〜ん、「宗門」の課題は多い。

 しかし、1番の課題はとどのつまり、現代日本からどんどん喪われてしまっている仏教に根ざした生活習慣(例えば朝夕の勤行(おつとめ))、もしくはそこで養われてきた生活感覚(例えば 外国人から逆輸入の形で紹介された「もったいない(MOTTAINAI)」(ワンガリ・マータイ)だとか、「おかげさま で」(ペマ・ギャルポ)だとか)といったものをどう回復していくか、ではないか、と私は考えるのですが……。

(……い、いかん、話がどんどんマニアックになっていく。) 

(1月24日)

 
 

謹 賀 新 年

    「あるく」

 私を見ていてくださる
 人があり
 私を照らしてくださる
 人があるので
 私はくじけずに
 こんにちをあるく(榎本栄一)
 

        旧年中の御厚誼に深謝し、本年も宜しく御指導の程お願い申し上げます。

(2006年1月1日)

 
 

2005年7〜12月分 現在の「日記」 2007年1〜4月分

 

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