法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「住職日記」(2004年1月〜12月分)
 

2003年9〜12月分 現在の「日記」 2005年1〜6月分

 
 

プラス思考・マイナス思考…!?

 亡夫の年忌法要を終えた夜、老女とその娘婿たちの会話。

義弟「お義父さんの〇回忌も終わりましたね〜。次は△年後ですか。」

義母「△年後ね〜。とてもそこまでは私は生きておられんだろうね。」

義兄「お義母さん、何を言ってるんですか。
    そんなこと言ってちゃいけませんよ。

    一日一日ですよ。
    何年先がとかじゃなくって、一日一日、精一杯頑張って乗り切っていくだけですよ。

    私ら(若い者)だってそうですもん。」

 (義弟、大きくうなずく)

義母「そうだね〜。一日一日だね〜。

    一日一日、弱っていくばかりだものね〜。」

義弟「……お義母さん。相変わらず人の話聞いてませんね。」

義母「だって〜、聞こえないんだもの〜(笑)」

義兄・義弟「「だったら、もっともらしく相槌なんか打たないで下さい!!(怒)」」

 お義母さん、耳遠かったのね……。 

人は得手勝手に法を聞く。

 もしくは、

理解したいようにしか、理解しない。 ……残念!!

(11月29日)

 
 

↓への補足、もしくは蛇足
 

「人生の答」とは何だろうか。

 そもそも人生に「答」などというものがあるのだろうか。

「ある」と言える人にはあるし、「ない」と言う人にはない―と答えるしかない。

なぜなら、「人生の答」とは、ただ待つ人に与えられるものではなく、ひたすら作ろうとする人が生み出すものだからだ。


(柳田邦男『「人生の答」の出し方』(新潮社・2004)より)

(9月2日)

 
 

あるコミックス(漫画)から

笹川「ね…いったい何悩んでいるの」

花岡「……」

花岡「人生について」
   「「いったいどうして人類はこの地上に存在するのか」について…」
   「あなた、考えたことない?」(ちょっとキザかしら)

笹川「その問いの答えは…ないわよ」

花岡「え?」

笹川「何のために生きるのか課題が与えられていたら、あなたはそのとおりに生きるつもりなの?」

   「神様が私たちに期待しているのはきっと可能性よね。
    生きがいを自分で見つけなきゃね。」

   「だから…私は恋に生きるのよ」

(清原なつの「早春物語」(RMC『花岡ちゃんの夏休み』(白泉社・1979))より)

 昔読んだコミックスの一節です。
 昨日の息子の質問でふと思い出したので、御紹介まで。

(4月12日)

 
 

子供のつぶやき

(……久々のお子様ネタです)

 昨夕、息子(7歳)から突然の質問が……。

「ねえ、お父さん。何で僕たち、地球に生まれてきただ〜?」(以下、米子弁)

私「う〜ん、不思議だなあ。」(内心冷や汗)
  「〇〇ちゃん(息子の名前)は、何でお父さんとお母さんの子供に生まれてきただ〜か?」

息子「わからんし。僕、わからんことばっかしだわ〜。」

……そうだよな。わからんよな。
 でもみんなきっと大切な理由(わけ)があるはず゙なんだよな。
(ちなみに同じ質問を受けた連れ合いは「選ばれたから」と答えたとか)

 う〜む、スゴイぞ。さすがはわが息子!(喜)
 テレビとゲームのことだけしか考えてないわけじゃない!!……のかな?

(後刻、息子にもう1度尋ね直したところ、彼は私たちの答えをロクすっぽ聞いていなかったことが判明しました)

 お、お前というヤツはーーー(泣)

(4月12日)

 
 

運命は口癖が決める!?(その2)

 『妙好人 因幡の源左』(柳宗悦/衣笠一省遍・百華苑・1960)をひもといていたら、源左さんのこんな言葉に出遇いました。

   「させて」

源左、
「お上さん、この世のこたあ、何につけ「させて」の字をつけなはんせえよ、
貰うじゃあなあて「貰わさせて」貰いなはれ。
こらえるじゃあなあて「こらえさせて」貰いなはれ。」谷口しな述。

 朝、目が醒めてまず最初の「あ、起きなけりゃならんか(タメ息)」に始まり、「アレしなきゃ」、「コレしなきゃ」……「食わなきゃ」、「働かなきゃ」……「生きなきゃならんか」。
 1日の暮らしの中で、私はどれだけ多くの「……ねばならない」を連発していることか……。

 これらの「口癖」からは、自分が「生きて在ること」はまず「当り前」。健康や若さに恵まれていることも、なすべき仕事や愛する家族に囲まれていることすらも「当り前」にしてしまっている私の姿しか見えてきません。

 そこには「……ができること」「……させて貰える」ことへの感謝なぞ、欠片ほども見当たりません。

 そんな私だからこそ、せめて「口癖」だけでも、まずは

 「働かせてもらおう」、「頑張らせてもらおう」……「生きさせてもらおう」。

とは思うのですが……、これがなかなか身には付きません。

 どうやら私の「地金」(というか「本性」)は、私の想像以上に「しぶとい」ようです。

我等愚痴身 曠劫来流転
今逢釈迦仏 末法之遺跡
弥陀本誓願 極楽之要門(善導『観経玄義分』「勧衆偈」)
  (我等愚痴の身、曠劫よりこのかた流転せり。
   今、釈迦仏の、末法の遺跡(ゆいしゃく)、
   弥陀の本誓願、極楽の要門に逢えり。)

(2月18日)

 
 

追悼 「すのう」ちゃんへ

 今から4年前、地元紙に当時週イチで連載中だったコラム『みんな大好き』(執筆・山元加津子)に「MSの私が好き ―雪絵ちゃんのほほ笑み―」(『日本海新聞』2000年2月19日付)という記事が載りました。
 見出しに眼を惹かれ読んでみると、そこには中2の時に多発性硬化症(別名MS)を発症して養護学級に転校してきた「雪絵ちゃん」のことが記されていました。

 中枢神経系の病気であるMSは、視力や感覚の障害、運動麻痺などさまざまな症状が出、再発を繰り返す度に症状が進行する例も多いそうです。
 発熱すると手足が動かなくなったり、目が見えなくなってしまい、その後少しずつ回復するけれどももとの状態に戻ることは難しい、という難病なのだそうですが、そんな病気に犯されながら、雪絵ちゃんはこう語ってくれたそうです。

「私ね、MSである私が好きだよ。
MSでなかったら、気がつけなかったこといっぱいあるし、会えなかった人もいる。
MSでなかったら、違った人に会えたと思うけど、私は今周りにいる人に会いたかったよ。
先生にも会いたかった。
だからMSでよかった。
私ね、もし体が動かせなくなっても、話せなくなっても、どんな体になっても、MSである自分を好きと言いたいの」

 (この記事の切り抜きは今も私の手元にあります。)

 2001年秋、当ウェブ『真宗大谷派西念寺』配信開始。(ほぼ同時期に雪絵ちゃん(HN「すのう」ちゃん)のウェブ『すのうレター』もスタート)
 HN「隣野ポチ」さんから『すのうレター』の掲示板「SNOW BOARD」開始の告知を受けてさっそく訪問。相互リンクが成立。
 当ウェブの「リンク」ペ−ジにこんな紹介文を載せました。

「すのうレター」
MS(多発牲硬化症)という難病で長期入院中のSNOWちゃんのHP。
懸命に「いのち」の花を咲かせている彼女にぜひ応援のメッセージを。」

 その直後、しまいこんでいた前述の「切り抜き」を見付け、雪絵ちゃん=「すのう」ちゃんであることに初めて気づいた私は、なぜか嬉しくなって、そのことを早速「SNOW BOARD」に書き込んだりもしました。

 それから2年……

 今年のお正月、久しぶりに、本当に久しぶりに彼女のウェブを覗いた私の眼に飛び込んできたのは、

「昨日12月26日朝4時30分すのうさんは、お亡くなりになられました。……
明日12月28日はすのうさんの誕生日でもあり、お葬式の日になりました。
謹んで皆さんにご報告申し上げます。
                  すのうの友人こと 隣野ポチ&もくれんれん 拝」

という昨年12月27日付けのメッセージでした。

…………………………………………

 すのうちゃん。
 今年は雪の多い冬です。
 私の住む町にも何度も雪が積もりました。
 舞い降りる雪を見る度にあなたを思い、あなたの名前をつぶやいている人が、この冬、どれだけいらっしゃるのでしょうか。

 すのうちゃん。
 あなたの「言葉」は、私を含めた多くの人達に勇気を与えてくれました。
 あなたは私に、「運命」に逆らうでも、流されるでもなく、「運命」を受け入れつつ、しかし、決して希望は失わず、明るくしなやかに生きる、そんな生き方が確かにあることを教えてくれました。

 あなたの人生は確かに短く、苦しいものだったと思います。
 けれど私は、あなたの人生を「不幸」とか「可哀想」とかいった月並みな言葉で語りたくはありません。
 それらの言葉は、

「MS(私の病名)である自分を無駄にしたくない。

 MSである自分を後悔したくない。

 MSであるじぶんを・・・好きと言いたい。」

 こう語ってくれたあなたに対する最大の冒涜だと思うから……
 その人の人生が幸福であったかどうかなんてその人自身にしか決められないものであって、他人(第3者)が決め付けてよいものではないと思うから……

 けれど、やっぱり切ないですね。
 あなたが亡くなるなんてこと、正直思ってもみなかったから。
 あなたと共に在った人たちの悲しみの大きさ、深さを思います。

 「MSの私が好き」

 あなたの口からこの言葉が発せられるまでのあなたの葛藤、この言葉を語るその影で人知れず抱えていたあなたの不安や焦燥、そして悲しみを、私が本当に理解できるようになるにはまだまだ時間がかかりそうです。

 すのうちゃん
 あなたの人生にこの言葉を贈ります。

……それでも人生に「イエス」と言おう。

 すのうちゃん
 ……ありがとう。
 ……さようなら。

合 掌

(2月10日・「すのう」ちゃんの四十九日を前に)

(追記)ウェブ・サイト『すのうレター』の継続を関係者の皆様に心よりお願い申し上げます。

 
 

謹 賀 新 年

「悟りという事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違いで、悟りという事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。」(正岡子規)

        旧年中の御厚誼に深謝し、本年も宜しく御指導の程お願い申し上げます。

(2004年1月1日)

 
 

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