法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
「西念寺婦人会だより」2000年1月〜6月分
 
2000年2月発行 掲載分
 
     「おらは、人さんに堪忍して貰ってばっかりおりますだいな」
                             (妙好人・因幡の源左)

 この言葉は、昭和の始めまでご存命だった青谷町山根の足利源左衛門さん(1842〜1930)、通称"妙好人因幡の源左"さんの遺された言葉です。

 「妙好人(みょうこうにん)」とは、浄土真宗における篤信の在家信者を褒めたたえた呼称で、妙好人の多くは名もなく無学な田舎の人々で、お隣り島根県温泉津の浅原才市さん(1850〜1932)なども有名です。

 源左さんも一生涯お百姓として田畑を耕し楮を栽培して、文字通り土と格闘して生きた人です。昔のことですから学校に行くこともなく、字の読み書きもできなかったそうです。

 しかし、18歳の時にお父さんが急死したことが縁で、それこそ若い時分から寺に参って真宗の教えをよくよく聞いていたのだそうです。

 大正11、2年頃のことですから、源左さん60歳の頃、智頭町に京都の一燈園主西田天香さん(1872〜1968)が講演に招かれて来られたことがありました。当時天香さんは『懺悔の生活』というベストセラーを出版した全国的な有名人で、源左さんも山根からわざわざ出かけていったのですが、交通事情の不便な当時のこと、会場に到着した時にはすでに講演は終わってしまっていました。
 気の毒に思った誰かが案内でもしてくれたのか、源左さんは講師のお宿で天香先生に会えることになりました。

 挨拶の後、源左さんは先生の肩を揉み始めました。(源左さんという人は人の荷物を背負ったり人の肩を揉んだりすることが好きで、またお灸をすえるのも得意だったそうで、この時も遠方から来られた先生のためにと自分から申し出たそうです。)
 そうやって肩を揉みながら「先生様、今日のお話はどがなお話でござんしたな」と尋ねた源左さんに、先生は、

「歳をとると気が短くなって、ちょっとしたことにでも腹が立ちやすくなるもんだが、そこはそれ、ならぬ堪忍するが堪忍で、何でも堪忍して、皆で堪忍し合って暮そう、ということを話したんだが」

と答えられました。

 すると源左さん、

「おらは、まんだ人さんに堪忍して上げたことはござんせんやあ。
人さんに堪忍して貰ってばっかりおりますだいな」

 この言葉がよく理解できなかったのか、先生は「もう一度言ってくれ」と聞きなおされたのですが、それに対して源左さんは、

「おらあは、人さんに堪忍して上げたことはないだけっど、おらの方が悪いで、人さんに堪忍して貰ってばっかりおりますだがやあ」

 この答えに対して先生は「私が肩を揉んでもらうような爺さんではない」とおっしゃったそうです。

 この逸話を読んだ時、とあるご住職からうかがったお話を思い出しました。
 その住職さんがあるお宅にお参りに行かれた時のこと、お勤めの後でお茶をよばれながら、そのお家の老夫婦とおしゃべりになりました。
 ここまでならよくある話ですが、そのうちお婆さんが日頃の愚痴をこぼし始めたそうです。フンフンと聞いているうちはよかったのですが、次第次第にその矛先が、隣に座っているご主人に向いてきたそうです。
「だいたいこの亭主は宿六で、大酒飲みで……」
 ご住職は相槌を打つわけにもいかず、(何せ悪口を言われている本人が目の前に座っているのですから)困ってしまっていると、そのお婆さん最後に一言。
「まあ私が我慢しているからこの家も何とか保っています」

 そのご住職はこうおっしゃいました。
「結局婆さんは、最後の一言が言いたかったんだろうね。でもあの場面では、どう見ても爺さんの方が我慢していたように思えるんだが……(笑)」

 私たちはこのお婆さんを笑うことはできません。このお婆さんの姿こそが私たちの生きざまそのものなのでしょう。

「自分が堪忍(我慢・辛抱)しているから(自分が頑張っているから)、この家は(この会社は、この寺は)何とか保っているんだ」

 こう考えている人は結構多いのではないでしょうか。そうやって自分を励まして、自分自身の価値を自分で確かめて、毎日を乗り切っていこうとしているのが私たちではないでしょうか。

 でもこのように考える時、私たちは必ず、誰々よりも自分の方が我慢している。誰々も大変かも知れないが、自分の方がズッと、ズッと、ズーッと我慢している、と思ってはいないでしょうか。
 「我慢している」と言ったすぐそばから、「我慢してやっている自分」が顔をのぞかせてはいないでしょうか。
 これが西田先生の言われた「ならぬ堪忍するが堪忍」の正体ではないでしょうか。

 それに対して源左さんの「人さんに堪忍して貰ってばっかりおりますだいな」という言葉には、私たちの本当の姿が見えている人の言葉、静かで確かな智慧の言葉といった味わいがあります。
 源左さんの言う「自分が悪い」とは、「だから自分が我慢しなくてはいけない」という自分を無理遣り納得させていくための理屈ではありません。「我慢している」と言いながらその実、「我慢している自分が本当は一番偉いのだ」と、自己主張していくその自分の姿が、その生涯を賭けた仏法聴聞を通して、源左さんにはよく見えていたのではないでしょうか。

 1本取った源左さんもさすがですが、それに即座に頷かれた天香さんもさすがだと思います。この場面、片や全国的な著名人、片や一介の田夫野人ですが、それこそ人生の達人同士の真剣勝負といった趣きさえあります。

 ただしこのお話、もう一つ別の目撃談も伝わっています。
 源左さん自身がこの一件を吹聴して回ったわけではないのですから、そばで見ていた人の受け取り方によって伝わる話にも当然違いが出てきます。

 その方によると、天香さんの「ならぬ堪忍するが堪忍」の話を聞いた源左さんはこう答えたそうです。

「おらにゃ、堪忍して下さる方があるで、する堪忍がないだがやあ」。

 「堪忍して下さる方」とは源左さんの言葉を借りれば「親様」、まさしく阿弥陀さまに他なりません。
 折りにふれて自分を偉い者と思いたがるこの源左を堪忍して下さって、必ず助けると誓われた「親様のご恩」―如来さまの深い深い大悲のお心を思えば、自分がしてきた我慢だの、努力だのはものの数ではない。
 源左さんの言葉からはこんな響きが感じ取れます。

 「人さんに堪忍して貰って」と受け取れば、それは源左さんが培ってきた深い人生観の表明ですが、「堪忍して下さる方がある」と受け取れば、その人生観の源となった源左さんの信仰の告白といった感があります。
 いずれにせよ、今から80年ほど前の同じ鳥取県の一角で大変奥深い問答が行われていたのでした。

 そんなこんなを考えている折り、新聞の読者投稿欄にこんなエピソードが載り、苦笑を禁じ得ませんでした。

(ある老夫婦の会話)
奥さんがご主人の顔を見て一言。
「私は(あなたと結婚して)これまで「忍」の1字でやってきました。」
するとご主人が即座に、
「そうか、わしは(お前と結婚して)「忍耐」の2文字でやってきた。」

(「西念寺婦人会だより」2000年2月号掲載)

〔参考文献〕
柳 宗悦・衣笠一省編『妙好人 因幡の源左』(百華苑・1960)

 
 
 
2000年3月発行 掲載分
 
  幸せのモノサシ

 昨年末、とある男性のお葬式を勤めました。その方は米子の出身でしたが、就職のために都会に出られて以来故郷には戻らず、独り暮らしで、最期は亡くなっていたのを隣人によって発見されたのだそうです。報せを受けた御親族が連れて戻られ、米子で葬儀となったわけです。
 そんな御事情でしたから御親族の悲しみもひとしおで、
「何とまあ可哀想な、不幸な一生だったんだろう」とお嘆きの様子でしたし、私もお話を聞けば「成程、気の毒な御一生だ」と思いました。

 しかし、その後しばらく経ってから私は、自分が亡くなったその方を「可哀想な方・不幸な一生の人」と決め付けていることに気付いて「おかしいゾ」と感じ出しました。

 故人をよくご存じの遺族ならともかく、その方のことをよく知りもしない私が、その方の生涯を「可哀想な・不幸な一生」、言葉を換えるならば「失敗の人生」と捉えている。これはよく考えてみると亡くなったその方に対して非常に失礼なことなのではないでしょうか。
 もし相手が故人ではなく、生きている人であるならば、
「あなたはいったい私の何を知っているというのだ。そのあなたが私の一生を不幸で失敗だと言う。ずいぶん傲慢な話ではないか」
といった言葉が当然帰ってくるのではないでしょうか。

 それではなぜ私が一度も会ったことのない方の人生を不遜にも「不幸」だと感じたかと言えば、結局その人の生涯全体を、その「死に様」によってのみ判断しているからだと気が付きました。

 「死に様」というのは一つにはいくつで亡くなったかということです。
 年少であれば「まだ若いのにお気の毒に」(不幸な人生)。高齢であれば「これだけ長生きしたのだから、まあ良しとせにゃあ」(幸福な人生)といった具合にです。

 そしてもう一つはどんな死に方であったかということです。
 病気で寝込んだ末か、突然の事故か。かつては「畳の上で死ねる・死ねない」といった言い方もありました。

 なぜこのような見方が生まれるかと言えば、我々日本人の幸福観が畢竟「健康と長寿と生産」にあるからだそうです。
 健康・長寿・生産、どれ一つ欠けても幸福とは言えない。元気で長生きで働けることこそが幸福なのですから、若死にや寝たきりがこれに反することは言うまでもありません。
 現在の日本の経済的繁栄は、言わばこのような幸福観の成果に他なりませんし、このような幸福観からすれば例えば貧しいということは当然悪いこと(不幸)になります。

 とあるインド人の観光ガイドさんの話です。
 彼はもともと日本人が好きで、一生懸命日本語を勉強して自国を訪れた日本人を案内する仕事についたのですが、今は日本人が嫌いになったそうです。
 なぜかと言えば、

「日本人は傲慢です。
 インドに来て貧しい人々に出遇うと、まるで伝染病患者を見るような目付きをします。そして"まあ、かわいそうに……"と言います。日本人は金持ちだから、思い上がっているのです。
 なぜ、貧しい人が気の毒ですか!?あの貧しい人々も幸福に生きているのですよ。それを蔑みの目で見る。私は日本人が嫌いです」

 私は、彼が言うように、日本人の全てが成金根性で貧しいインド人を見下しているとも思いませんが、私達が貧しい〓悪、貧しい〓不幸という幸せの尺度・ものさしに執われていることだけは間違いないと思います。
 貧しいことを悪いことだとしか思えない、貧しい人を不幸な人だとしか思えない幸福観。健康・長寿・生産のみを是とする人間観(それは当然老人や病人、障害者を非として排除します)。それはやはり人間に対する、人生に対する一面的な、貧しい見方ではないでしょうか。

 五木寛之さんのエッセイにこんな話がのっていました。

 五木さんの知り合いの編集者が乗っていた通勤電車が突然に停まったのだそうです。
停車するまではどこにでもある通勤電車の車内風景で、新聞を読んだり居眠りをしたりと乗客はそれぞれのやり方で時間つぶしをしていたのですが、突然の停車にざわつく車内に、飛び込み自殺があって現在遺体の処理を行なっている旨のアナウンスが流れると、それを聞いた乗客は皆一様に舌打ちをし、どのくらい遅れるのかと時計を見、携帯電話をかけて仕事先に連絡を取るとすぐにそれぞれの時間つぶしに戻っていったそうです。
 しかし、その編集者は自分たちのその姿に愕然としたのだそうです。
 つまりその車中の乗客は誰1人として、今現在その電車のすぐ下に居る1人の死者に何ら―1人の人間が自ら死を選んだという事実に心を痛めるどころか、それが男なのか女なのか、若者か老人であるのかさえも―関心を寄せる者がいなかったということなのです。

 もし私がそこにいてもおそらく同じようにしたに違いありません。

 貧〓不幸・富〓幸福を唯一無二の尺度にして幸福を追求してきた日本人の心はここまで来てしまっているのでしょう。

 元NHKアナウンサーの鈴木健二さんは、インド駐在中に次のような体験をしたそうです。

 鈴木さんはある田舎町で交通事故を目撃したそうです。はねられたのは小さな子供で、一目で生命が危ないとわかる程の重傷だったそうです。母親はグッタリとした子供を抱えてオロオロと泣くばかりで、鈴木さんも内心もう駄目だとは思いながらも「医者を、早く医者を」と叫んだそうです。
 するとその時、周囲に居た大勢の群衆が一斉に大地に膝まづいて祈りを始めたのだそうです。
 その祈りがどんな宗旨に依ったどんな内容のものであったかを知る術はありませんが、ともかくそこに居合わせた全ての人間が、1人の日本人を除いて、わが子を喪おうとする母親と悲しみを共有しながら、今まさに生命終わらんとする1人の子供のために祈っていたのです。
 その光景を見た鈴木さんは大変感動し、「医者を!」と叫ぶしかなかった自分をひどく薄っぺらく感じたのだそうです。

 1人の人間の死に対して両極端の態度をとれる2つの国民の、果してどちらが豊かで、どちらが幸福なのでしょうか。

(「西念寺婦人会だより」2000年3月号掲載)

〔参考文献〕
鈴木健二『ビッグマン愚行録』(新潮文庫・1982)
 〃  『ビッグマン紙鉄砲』(新潮文庫・1983)
五木寛之『生きるヒント・4』(角川文庫・1997)
ひろさちや「ほとけのいのち・6」(『ぴっぱら』1998年9月号)

 
 
 
2000年4月発行 掲載分
 
     「障害」は不便である。しかし、不幸ではない。
                         (ヘレン・ケラー)

※「障害」を好きな言葉と置き換えてください。「生まれること」、「老いること」、「病むこと」、「死ぬこと」……「私が私であること」、「私が私として生きること」 

上に掲げたH・ケラーの言葉を私に教えてくれたのは、ベストセラーになった『五体不満足』(講談社)という本です。

 今春早稲田大学を卒業した著者の乙武洋匡君は「先天性四肢切断」、生まれつき手足のない障害者(原因はいまだ不明)ですが、彼はその障害に敗けることなく、「障害をもっていても、ボクは毎日が楽しいよ」と明るく前向きに、障害者の暮らしやすいバリアフリー社会の実現をめざして頑張っている青年です。
 私達には耳慣れないこの「バリアフリー」という言葉は、障害者や高齢者にとって障壁となるもの(バリア)―例えば車椅子にとっての道路の「段差」―を取り除く(フリー)という意味ですが、彼はそういったハード面(建物や乗り物)のバリアフリーのみならず、「障害者って、かわいそう」と見てしまう私達の障害者観を、健常者と障害者の間を隔ててしまう固定観念、「心の壁」(バリア)として、「心のバリアフリー」をめざして、本の執筆にTV出演にと、積極的にマスメディアにも登場しています。
 
この本の中で彼は、取り立てて自分が障害者であるということを意識したことはなかったと語っています。障害者であることで引け目を感じたり、イジメを受けたり、何かを制限されたといった経験がない、と。

 また、彼が誕生した時、手足のないその姿が産後の母親にショックを与えることを懸念して、「黄疸がひどい」との理由で1ヵ月間も母子は離れ離れにされていたそうですが、呑気にも「黄疸」という隔離理由を鵜呑みにしていた母親は、初対面の時、万一卒倒でもしたらとベッドまで準備した周囲の心配をよそに、手足のないわが子の姿を見て「かわいい」とつぶやいたそうです。

 このようにこの本では、彼とその両親は、クヨクヨと悩むことを知らない明るく前向きな、著者の言葉を借りれば良い意味「いい加減」で「お気楽」な一家として描かれています。
 しかし、両親・教師・友人の理解と愛情の中で20歳過ぎまで自分を障害者だと特に自覚することもなく「ノー天気」で「ちょっとオマヌケ」に育ってきたと言いながら、同じ本の中で彼は、子供たちの好奇の眼の的になり、「何だあれ」「気持ち悪い」と叫ばれるような体験は日常茶飯事、特に気に留めるほどのことでもなかったと書いています。

 本文にこそ書かれていないものの、この一家、特に両親が、「障害者のわが子」と「障害者の父母としての自分」とを受け容れるまでの精神的葛藤が相当なものであったことは容易に想像がつきます。
 「なぜこの子だけがこんな目に」と怒り、悲しみ、障害の原因をあれこれ詮索して時には自分達を責め、時には運命を呪うといった苦悶があったに違いありません。

 前掲の母子初対面のエピソードも決して額面通りに受けとることはできません。
 おそらくは1ヵ月という長い離れ離れの間、「隔離の理由は黄疸ではないかも知れない」「普通の子(五体満足)ではないかも知れない」といったさまざまな疑惑と不安がお母さんの胸中を渦巻いていたことでしょう。
 葛藤の中で、「たとえどんな子であろうとも自分はその子の母親として生きる」。こんな決断がなされたのでしょう。
 わが子と対面して発した第一声「かわいい」は、言わばそんな決意と覚悟の「かわいい」ではなかったのでしょうか。

 平成9年3月、神戸「少年事件」によって、突然に一人娘彩花ちゃんを亡くされた山下京子さんの著書に次のような一節があります。

「ドイツの文豪ヘッセの詩に、味わいの深い一節があります。それは、

 「人生を明るいと思う時も、暗いと思う時も、
  私は決して人生をののしるまい」
 「日の輝きと暴風雨とは
  同じ空の違った表情に過ぎない。
  運命は、甘いものにせよ、にがいものにせよ、
  好ましい糧として役立てよう」―と。
 要するに、何があろうと、目先に紛動されず、焦らず、一切をわが生命の滋養としてゆく賢さをもつことであります。

[友人が届けてくれた新聞記事の切り抜きの]この言葉を目にしたとき、私の心が決まりました。……ヘッセが言うように、空にだって晴れもあれば嵐もある。それが現実であり、本当の姿だ。嵐を恨んでも嘆いても、自分が弱くなってしまうだけだ。苦しみも楽しみも、全部自分の人生なんだ。私は、私の人生に、顔を上げて向き合っていこう。生き抜こう。そう心が決まりました。」
         (『彩花へ―「生きる力」をありがとう』(河出書房新社))

 置かれた情況こそ違え、乙武君のお母さんもおそらくこんな心境ではなかったでしょうか。

 そして、このような形で「苦しみも楽しみも全部自分の人生、他の誰のものでもない自分の大切な大切な人生」、「たとえ障害があろうとも、それが他でもない自分自身」であると受け容れることのできた時、人は「その人にしかできないこと」、言わば「自分の役割」を発見できるのではないでしょうか。

 この本によれば、大学1年生の秋のある夜、自分がこれからどう生きていこうか考えていた乙武君は、自分が「障害者」であるという事実を再確認し、次のように考えます。

「どうしてボクは障害者なのだろう。多くの人が健常者として生まれてくるなか、どうしてぼくは体に障害を持って生まれてきたのだろう。そこには、きっと何か意味があるのではないだろうか。障害者にはできないことがある一方、障害者にしかできないことがあるはずだ。……
 そして、ボクは、そのことを成し遂げていくために、このような身体に生まれたのではないかと考えるようになった。……
 障害を持っているボク、乙武洋匡ができることは何だろうか。もっと言えば、乙武洋匡にしかできないことは何だろうか。この問いに対する答えを見つけ出し、実践していくことが、「どう生きていくか」という問いに対する答えになるはずだ。」

 その問いに対してバリアフリー社会の実現、とりわけ「心のバリアフリー」を目指すという答えを見つけた彼は、「障害をもっていても毎日が楽しい」、「障害者である自分が好きだ」と語ります。冒頭のH・ケラーの言葉も、そんな彼の心境を伝えるものとして引用されています。

 私がここまでなぜ長々とこの『五体不満足』を紹介したかと言えば、自分が障害を持っていない分だけ彼より幸福だとか、障害者である彼があんなに頑張っているのに較べて誰それは何て駄目な奴なんだ、とかを言おうとするためではありません。

 私は冒頭のH・ケラーの言葉が、どんな背景、どんな精神的な苦闘の中から生まれてきたか尋ねるためにこの本を紹介してきました。そして私は、「障害は不便だが、不幸ではない」というこの一文の「障害」という言葉は、他のあらゆる言葉に置き換えることができると考えます。そして、言葉を置き換えさえすればどんな人にもそれは当てはまるのだと考えています。

 そこで、ますます高齢化していく日本において、これから老いへと向かっていかなければならない私は、今「老人」と呼ばれている方々に、ぜひ次のように言ってほしいのです。
 「老いは不便である。しかし、不幸ではない」と。

 歳をとれば成程不自由なことが増える。病気もするし、何事も若い時のようにテキパキとはいかなくなる。けれども歳をとるということもそう捨てたものでもない。
 若い時には気が付かなかったけれども、歳をとった今になって見えてきたことがある。若い頃ならば競争意識ばかりが先に立って素直に付き合えなかった人でも、今なら素直にその良さを認めることができる……。
 失ってしまった「若さ」と引き換えに、私は「老い」を、「成熟」を、人生の深い味わいを手に入れた。ぜひそのように語っていただきたい。

 いたずらに「老い」を悲しむのではなく、「老い」を自分自身と受け容れて、そして老いた今だからこそ獲得できたその「何か」をぜひ私に教えていただきたい。
 自信を持って、与えられた「老い」を語っていただきたい。
 それこそが今老人と呼ばれる人達が、これから間違いなく老いていく若者に対して果たすべき「役割」ではないかとさえ私は考えるのです。

 もしもこの先、「歳をとったらおしまいだ。若いうちが華だ」と語るお老寄りしか目にできないのであれば、正直、私自身が恐くて歳をとっていけなくなってしまうのですから。

(「西念寺婦人会だより」2000年4月号掲載)

〔参考文献〕
乙武洋匡『五体不満足』(講談社・1998)
山下京子『彩花へ―「生きる力」をありがとう』(河出書房新社・1998)

 
 
 
2000年5月発行 掲載分
 
     生かさるる いのち尊し けさの春
                  (中村久子)

   「ある ある ある」

 さわやかな
 秋の朝

 「タオル 取ってちょうだい」
 「おーい」と答える
   良人がある
 「ハーイ」という
   娘がおる

 歯をみがく
 義歯の取り外し
 かおを洗う

 短いけれど
 指のない

 まるい
 つよい手が
 何でもしてくれる

 断端に骨のない
 やわらかい腕もある
 何でもしてくれる
 短い手もある

 ある ある ある

 みんなある
 さわやかな
 秋の朝          (『こころの手足』より)

 この詩は、希有の念仏者として知られた中村久子さん(1896〜1968)の詩です。

 中村さんは岐阜県高山市に生まれ、2歳の時に「突発性脱疽」のため両手両足を切断されました。(詩の中の「短いけれど/指のない/まるい/つよい手」「断端に骨のない/やわらかい腕」といった一節がそんな中村さんの身体の特徴をよく表しています)
 そして、娘の恢復を願う一心から天理教に入信し、また、いくつまで生きられるかも定かではない娘を、絶対に人手には渡さず、最期まで自分の手で育てるのだと誓われたお父さんは、久子さん6歳の夏、

「ひさァ、父(とと)様が乞食になっても、死んでも、決して離さないよ」

という言葉を最後に急死されます。
 残されたお母さんは久子さんを厳しく仕付け、不自由な身体を使っての裁縫・編み物・炊事・洗濯・掃除といった家事全般を身に付けさせます。
 しかし、当時のことですから、身障者には自らの身体を見世物として晒す以外に自活の手段はなく、中村さんは19歳の折、自ら志願して見世物小屋に身を投じ、身につけた家事を芸として以来22年間を興業界に生き、その間数度結婚されますが、ご主人2人とは死別。授かった3人の娘さんの内のお1人は幼くして喪っておられます。
 そのような苦悩に満ちた半生を経て、40代半ば頃より真宗の教えにふれられ、後半生の30年間は夫や娘の背に負われて全国を講演して回り、「日本のヘレン・ケラー」と呼ばれました。
 この詩はそんな人生を送ってきた方が歌う「ある ある ある」という詩なのです。

 私達の感覚からすれば「ない ない ない」ではないのか。手も足もない人がなぜ、「ある ある ある/みんなある」と詠めるのか。「あれもない。これもない。手も足も、優しい夫も、愛しい娘も、みんな無くしてしまった」ではないのか。それなのになぜ…? 
 それを知る手掛かりは、同じ中村さんの文章の中にありました。

「50何年か前に亡き父が火の玉のようになって祈りつつ願いを神様にかけて下さった時、切り落とした手足が今よりもっと長くなっていたら、それが痛みも苦しみもなくなっていたら、いったい私はどんな心で今日まで生きて来ただろうか―。苦しい時、悲しい時、神や仏に無理な祈りや願いをかけることは当然なこと、そして宗教とはかかるもの―と自他共にこれを許して、おそらく正法を、真実を求めようとはしなかったに違いない。」(中村・前掲書)

 また、癌のために早世された北海道の鈴木章子さんは、その心境を「おもい」という詩で語っておられます。

   「おもい」

 あーあ
 思いどおりにならなくて
 ほんとうに よかった
 こんな汚い根性で
 思いどおりになっていたら
 何人 人を殺したやら……
 何人 敵をつくったやら……
 今 太陽の下で
 おしゃべりに夢中になれるのも
 思いどおりにならなかったおかげ……

 あーあ
 思いどおりにならなくて
 本当に
 よかったなあ……

 癌だって
 おもいどおりにならない人生だもの
 あたりまえ……
 おもいどおりにならぬ恩恵
 良かったなあ……

 手も足もあるのに、気が付けば私は「あれが足りない。これが気に入らない。これがあれば(あれさえなければ)―つまりは自分の思い通りになりさえすれば―、自分はもっと幸せになれるのに」と思いながら暮らしています。
 けれども、そのような私の心は、幸せになるためならば、何であろうと、たとえ神仏であろうとその道具にしていく、また邪魔なものは徹底的に排除していくものであることを、はからずもお2人の言葉は教えて下さいます。

 もしすべてが心のままになるとしたら、自分はいったい何をしてしまうのか。自分はいったいどんな人間になってしまうのか。思うだに恐ろしいものがあります。
 宗祖のお言葉を借りれば、

「わが心の良くて殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも、百人千人を殺すこともあるべし。」(『歎異抄』)

 条件さえ整えば、いつ殺人犯となっても不思議でない。それが私の心の本性ではないでしょうか。

 お2人の言葉は長い精神的苦闘の末にそのことに気付くことができたという、そして手足がないことこそが、癌こそが、そのことに気付かせてくれた1番の「善知識(ぜんじしき・よき教師)」であったという頷きの表明なのでしょう。
 「手足のないことが善智識」「癌は宝なり」と頷けたことによって、初めて、苦しい苦しい自分自身の境遇を、「ある ある ある/みんなある」と、「思いどおりにならなくて/ほんとうに よかった」と、「これこそが他でもない私自身の人生」と、慈しむことができたのではないでしょうか。

(「西念寺婦人会だより」2000年5月号掲載)

〔参考文献〕
中村久子『こころの手足』(春秋社・1973)
鈴木章子『癌告知のあとで 私の如是我聞』(探求社・1989)
 鈴木章子『還るところはみなひとつ ―癌の身を生きる―』(東本願寺伝道ブックス26・1995)


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