法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
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寺報「西念寺だより 専修」 年1回発行 〜 第24号<1999年6月発行>
 
   「摂め取って捨てず」

―「仏心というは大慈悲これなり。
  無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す。」
 (『観無量寿経』)―

 私たち真宗門徒が「御本尊」として拝む仏さまは「阿弥陀如来」ですが、その阿弥陀さまとはどのような仏さまを言うのでしょうか。私たちの先輩方はそれこそいろいろと言葉を尽くして説明してくださっています。

 たとえば、親鸞聖人はご和讃の一つに、
 「十方微塵世界の
   念仏の衆生をみそなわし
   摂取してすてざれば
   阿弥陀と名づけたてまつる」
として、「アミダ」という名の仏は「念仏衆生摂取不捨」の仏、つまり十方、東西南北四方八方さらには上下の方向に「微塵」、それこそ塵芥の数ほどある世界(今風に言えば全宇宙)の「南無阿弥陀仏」と念仏する者を摂め取って捨てない仏さまである、と説いておられます。

 親鸞聖人はまた、その「摂取」の語の左側にルビを振って次のように解説しておられます。
「(摂)おさめ/(取)とる
(摂取)ひとたび取りてながく捨てぬなり。摂(しょう)は、物(もの)の逃(に)ぐるを追(お)わえ取るなり。摂はおさめ取る。取はむかえ取る。」
(意訳:「摂取」とは「一端おさめ取ったら永久に捨てない」ということだ。「摂」とは物(衆生)が逃げるのを追いかけていって取らえる」ということだ。「摂」は「おさめ取る」という意味であり、「取」は「迎え取る」という意味の語である。)
と解説しておられます。

 この中で私が注目するのは「物の逃ぐるを追わえ取る」、物(〓衆生)が逃げるのを追いかけていっておさめ取る、という言葉です。

 私には、この言葉を読むといつも思い出す一つの情景があります。
 それは今から20年程前、私が大学に進んで米子を離れてから初めて帰郷した夏のことです。
 山門を出たすぐ脇の路上で、子供の頃からよく知っている近所のお婆さんとバッタリ出遭ったのですが、何とそのお婆さん、私の顔を見るなり、慣れない都会暮しでいささか痩せた私の手を握って、「苦労しなさって」と涙を流し始めたのです。
 何せの路上での出来事でしたから、素直にうれしいと思うよりも、恥ずかしいやら、照れ臭いやらで、正直「お婆ちゃん、勘弁してよ」と、一刻も早くその場から離れたいという気持ちをその時はいだいたものでした。

 そのお婆さんに私は赤ん坊の頃からお世話になり、もしかすると実のお孫さんよりも可愛がってもらっていたかも知れません。
 でも、そのお婆さんが私に想いをかけてくださっていたほど、私がそのお婆さんのことを想っていたかというと、はなはだ怪しいものがあります。
 私はその時、それこそその場を離れよう離れよう、その愛情から「逃げよう逃げよう」とばかりしていたのです。

 しかし、私がその時出遇っていたものは、親鸞聖人のお言葉にあるような、逃げようとする私をそれこそ追いかけて来てまで包み込もうとする大きな愛情ではなかったか、と最近考えるのです。
 そしてその愛情とは、見方を変えれば、苦しむ私と一緒になって苦しもうとする心、いやむしろ苦しむ私に代わって苦しもうとする、苦しむ私に先立って涙する心ではなかったかと思うのです。

 阿弥陀仏が一切の衆生、生きとし生けるものを救おう、あらゆる生きものの中で唯一生きることに苦しさや虚しさを感じる人間に対して、「ただ苦しかった、ただ虚しかった」で一生を終えることのない生き方を与えよう、と願われた本願は、「無縁の大悲」という言葉で表されます。

 「無縁」というのは、「縁無き衆生は度しがたし」という言葉もあるように、助かる「縁」、手がかりの無いということであって、「無縁の大悲」とは、それこそ助かる手がかりの無い者を救おうという仏の大きな慈悲、あわれみという意味です。

 しかし、曾我量深先生は、その「悲」に注目して、「大悲」を文字通り仏さまの大きな「悲しみ」である、と抑えられました。
 先生によれば、本当に憐れむということは悲しむことなのだそうです。
 「無縁の大悲」とは、助かる手立ての尽き果てた衆生のために身を犠牲にして、永遠に浮かぶ瀬の無い者となろうとする仏さまの深い深い、それも自分自身に対する悲しみである、とおっしゃるのです。

 「悲痛」という熟語もあるように、漢字の「悲しむ」にはそれこそ「痛む」という意味があるそうですが、本当に悲しい時、人は本当にその身が痛むのではないでしょうか。
 身が引き裂かれる。断腸の思い。
 これらの表現が決してオーバーでも、誇張でもないことを皆さんよくご存じでしょう。
 人が本当に人を憐れに思う時、悲しみのあまりその身が痛むのです。

 愛しい人が苦しんでいるのにどうすることもできない。どうしてやることもできない。自分の力のなさに、ただ、ただ涙する他はない。
 悲しいことですが人が生きる上で幾度か出遭わざるを得ない場面です。

 たとえば、親が病気の我が子を憐れんで、その苦しみを共に苦しもう。できれば代わってやりたいと願いながら、その苦しみをどうすることもできない自分自身を悲しむ。
 そして、その悲しみを通して、ひいては人が人として生きなけらばならないというそのこと自体を深く深く悲しむ。
 仏さまの「大悲」の心とはまさしくそのような心ではないでしょうか。

 聖人のご和讃の中にも、
  「十方の如来(〓仏)は衆生を
   一子のごとくに憐念す」
という一節があります。
 もしかすると私は20年前、あのお婆さんの涙を通して、はからずも、曾我先生がおっしゃった「深い悲しみ」というものにふれていたのかも知れません。

 もちろんそのお婆さんが仏さまだったというのではありません。誰に対しても平等にそんな愛情をふりまいていたわけでもないでしょうし、また、四六時中私のことばかり考えていてくださったというわけでもないでしょう。
 ある心優しい老女が、たまたま道端で子供の頃から見知っていた若者と久しぶりに出遭い、そのやつれた姿を見て胸がつまった。
 出来事としてはまあそんなところでしょう。

 そして私はと言えば、薄情なことに、そんな出来事があったことさえ、ごく最近まで忘れてしまっていました。
 しかし、具体的な出来事は忘れてしまっていても、そのお婆さんのそんな優しさにふれたこと、そんなお婆さんがごく近所に居てくれたことが、私が今生きている上での確かな支え、励ましとなってくれていると思います。
 また、そのような優しさの中で育てられたからこそ、立派な人とはいかないまでも、人から後ろ指を指されることもなく、一人前の顔をして暮している今の私があるではないでしょうか。

 子供達はそんな愛情の中でこそ育っていくべきであり、そんな愛情の中でこそ初めて人は人となっていけるのではないでしょうか。

 今、私はたまたま「人が人となる」という言葉を使いました。
 私たちはよく「人間の皮をかぶった、人の顔をしたけだもの」といった言葉を口にし、また耳にもしますが、では人と動物との違い、人が人である所以とはいったい何でしょうか。
 言葉を話す。道具を使いこなす。2本足で歩く。いろいろ答え方はあるでしょうが、仏教では次のように教えています。
 「「無慚愧」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とする。」(『涅槃経』)

 「慚愧」とは簡単に言えば恥ずかしいと思うことです。恥を知っているものが人間であって、恥を知らないものを動物(畜生)と呼ぶ、というのです。
 つまり、自分にかけられた愛情に対して恥じることを知っている。
「こんな私に想いをかけていただいてまことにありがたい。まことに申し訳ない。」
 昔風に言ったら「勿体ない。かたじけない。」
 こういった感情をいだいてこそ一人前の人、人間らしい人間だと、このお経の言葉は教えてくれているように思います。

 お念仏、「南無阿弥陀仏」と口に称えるという行為は、「阿弥陀様、お助けください」というお願い、困った時の神頼みの言葉ではなくして、実は「憶念弥陀仏本願(弥陀の本願を憶念する)」(「正信偈」)、私にかけられた愛情、大悲を憶い、「南無」(ありがとう、ごめんなさい)と慚愧し、感謝する行為ではないでしょうか。
 そんなことを考える昨今です。
                 (『西念寺だより 専修』第24号〈1999年6月発行〉掲載)

〔参考文献〕
曾我量深「本願の仏地」(弥生書房『曾我量深選集』第5巻所収)


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