法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
大谷大学真宗学会『親鸞教学』第45号掲載(1985年4月)
 
 
 

信 仰 的 実 存

                     ― 本願成就の文を手掛りとして           

豅   弘 信  




親鸞において領解された、本顧の機としての人間をあらわす語の一つに「凡夫」がある。

「凡夫」は、すなわち、われらなり。
本願力を信楽するをむねとすべしとなり。
                  (『一念多念文意』、東本願寺版『真宗聖典』544頁)

この本願の機、すなわち本願の対象にして本願力を信楽すべき存在としての「凡夫」とは、観念の中で構築され美化された人間像などでは決してなく、

凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと.水火二河のたとえにあらわれたり。(『一念多念文意』、『聖典』545頁)

と語られるような「よろずの煩悩にしばられ」①て、日々万事にわたって煩悶憂苦し、「心のために走せ使いて、安き時あることな」②き人間、すなわち「具縛の凡愚」③を言うのである。

親鸞の生きた時代社会に限定するならば、それは、具体的には、

うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたりたるものも、野やまに、ししをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきないをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、
                                 (『歎異抄』、『聖典』634頁)

と語られる「屠沽の下類」④すなわち「いし・かわら・つぶてのごと」⑤き社会最底辺の生活者の姿をとっている。

それぞれの生きる時代社会の限定によって、全く異った生活様態、生き様を呈してはいても、鎌倉期の彼らも、現代に生きる'我々もともに「具縛」という現実において苦悩の生を生きねばならない。
人間は聖者も凡俗も、賢人も愚者も、皆等しく「凡愚」の悲しみを背負っている。
そこにおいて人間は、人間であるというその事実において、すでに普遍の課題を荷っていると言えよう。

その人間の課題性を示す言葉に「空過」がある。
空過、空しく過ぎるとは、人間の生存が無意味に、自己の生に確固たる意味を見出し得ぬまま、終わりを告げることを指すのではなかろうか。
死という現実の前で崩壊する他ない生の意味しか見出し得ぬところに人聞の課題性があると言えはしないか。

また、この煩悶憂苦すること多き人生において、我々は必ずしも相互敬愛、相互扶助の人間関係を形成しているわけではない。
およそ程遠い離反と癒着に満ちた人間関係の中にある。
そのような中にあって人間は孤独である。
真に他を理解することもなければ、理解されることもない。
「独り生じ独り死し独り去り独り来」⑥るは厳然たる生の事実であるが、人は苦悩の中で孤独を知り、孤独と知ってさらに苦悩する。
そして孤独なるがゆえに、一層人は友を、白己の苦悩を真に理解し、共に歩んでくれる同伴者を求めずにはいられない。
しかし、友を求める営みの中で、逆に他を疎外して孤独を深めるという矛盾を犯すのもまた、人間である。

そして人間は、このような矛盾に満ちた生の営み全体を非本来なるもの、本来性を喪失したものとして違和感を、また空虚なるものとして虚無感を、感じずにはいられない。
違和感にしろ虚無感にしろ、それはごくかすかな、たまさかのものであるに過ぎない。
しかしそれらは存在の根源からの問いかけ、存在そのものが発した空過への危険信号であると言える。
なぜなら人は時として、

「人間は何のために生きているのか」

という問いの形をとって生の意味の喪失を訴えるからである。
このような問いが惹起するところにすでに、本来性を失ったまま空しく過ぎていくという生の問題性が露呈しているのである。

この問いに対する答えとして提示されているのが、親鸞の、「凡夫」イコール「本願力を信楽するをむねとすべ」き存在という定義である。
本願力の信楽を人生における根本事とせぬ限り、その本来性を回復し得ず、人生の意義をも充足できない存在、その課題性を超克し得ない存在が「凡夫」としての「われら」である。

ここにおいて私は、本願力の信楽すなわら本願力回向成就の信を語る「本願成就の文」

諸有衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。
至心に回向せしめたまえり。
かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。
ただ五逆と誹謗正法とをば除く。(『大無量寿経』、『聖典』212頁)

を手掛りとして、空過を必然とする人間の課題性とそれを超克していく信心の内実、および獲信において開示される新しい生の内実について考察していきたい。




因位法蔵菩薩の発願において「設我得仏 十方衆生」と喚われ、「若不生者 不取正覚」と誓われる「衆生」とはいかなる存在であろうか。
「三有に輪転して衆多の生死を受くる」⑦衆生はそのまま、本願の成就において、信心の主体たる「諸有衆生」へと転ぜられるべき存在である。
そこには法蔵菩薩大悲発願の必然的契機となる課題性が内包されていると思われる。
その衆生の課題性と如来発願の必然性を明らかに語るのが、曇鸞の

「真実功徳相」は、二種の功徳あり。
一つには、有漏の心より生じて法性に順ぜず。
いわゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。
このゆえに不実の功徳と名づく。
二つには、菩薩の智慧・清浄の業より起こりて仏事を荘厳す。
法性に依りて清浄の相に入れり。
この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳と名づく。
いかんが顛倒せざる、法性に依り二諦に順ずるがゆえに。
いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入るがゆえなり。
                                (『浄土論註』、『聖典』170頁)

という二種功徳の文である。
衆生の不実の功徳こそが如来の真実の功徳の契機である。
つまり、衆生のなす諸善は、有漏の心より生じた顛倒虚偽の因であるがゆえに、果も必然的に顛倒虚偽であって「畢覚浄に入る」ことなどあり得ない。
すなわち衆生とは「いずれの行にても、生死をはなるることあるぺからざる」⑧存在、「出離の縁あることな」⑨き「罪悪生死の凡夫」⑩である。
法蔵菩薩は「無有出離之縁」の衆生を大悲するがゆえに、発願修行して真実功徳の名号を成就したのである。

法蔵菩薩の智見した衆生の現実相とは如何なるものであろうか。
親鸞は衆生の依止である衆生心を

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし。
虚仮詔偽にして真実の心なし。(『教行信証』「信巻」、『聖典』225頁)

と語っている。

ここで親鸞の語る不清浄不真実なる衆生心の内容を推求してみると、それは畢竟分別的理性、我々の日常を成り在たしめている分別的理性と言い得るのではないか。
すなわち分別的理性は、事物を事物そのものとして知るのではなく、まず自に対する他として分別し、事物を名言をもって解釈して定義する。
善悪、是非、好悪、美醜等々。
そのような分別による価値判断において、人は事物と隔絶されており、事物を如実に認識することはない。
ただ自らの眼に映る通りのものとして知る独善的認識があるのみである。

そしてこのような分別的理性の根底には、

自力というは、わがみをたのみ、わがこころをたのみ、わがちからをはげみ、わがざまざまの善根をたのむひとなり。(『一念多念意』、『聖典』541頁)

という自力の心、自覚され反省されることなぎ自己への盲目的信頼がある。
この自力の心、いわゆる我執とは、無明(我癡)によって生じる「われ」という想い(我見)であり、自己愛着(我愛)と自己拡大(我慢)をその特微としている。 ⑪

このような自我意識は他との対立を前提として成り立つものであるから、必然的に他への反逆をもってしかその独立を保持し得ない。
それゆえ、人間同士の交わりにおいて互いに理解し合うことは真の意味ではあり得ない。
互いに相手を自己の想いの中で私有化しようと企て合うことによって、自立といえども実は排他と孤立に、連帯といえども迎合・妥協に終始する。
したがって人間の日常において自立と連帯とは常に矛盾対立せざるを得ない。

このような「邪見語」⑫「自大語」⑬としての我に立脚した独善的分別に基づいて行なわれる仏道におけるいかなる善も、決して行(衆生を涅槃に至らしめる行為)としての質を確保できない。
畢竟業(衆生を流転ヘいざなう行為)としての質しか確保し得ない。
外見上いかに真蟄な仏道修行の姿をとっていても、結局のところそれは最終的な自己肯定のための自己否定でしかあり得ない。
その究竟の目的である成仏も、自己の分限に昏い未覚の衆生が覚者たる仏を云々するという、一種の越権行為を通して、自我の自己拡大性の満足された状態を夢想しているに過ぎない。
衆生の欣慕する化土としての浄土もまた、同様のことが言える。
衆生は真実ならざる目的のために真実ならざる善根を回向する。
それゆえまさしく

しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。(「信巻」、『聖典』232頁)

と言える。

そしてこのような真実清浄ならざる回向心にとって自我の満足のために回向される善根が、煩悩断滅の行である。
衆生の煩悩を容認することのできぬ分別的理性が、その現実を批判して立てたものが断煩悩の行である。
しかし、分別において悪と規定されても、衆生の否定できぬ身の現実が

凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと.水火二河のたとえにあらわれたり。(『一念多念文意』、『聖典』545頁)

という煩悩艮足・煩悩成就である。
煩悩とは自己の一部、自己の所属物ではなく、むしろ煩悩こそが自己、煩悩によって形成されるのが自己である。
「私の煩悩」ではなく「煩悩が私」である。
それゆえその行は、一生涯不断不休の煩悩に対して、一生涯不断に行じられなければならぬし、その営みは決して出離生死として成就することはない。

一切凡小、一切時の中に、貪愛の心常によく善心を汚し、瞋憎の心常によく法財を焼く。(「信巻」、『聖典』228頁)

という煩悩の現実を恐怖して

急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども、すぺて「雑毒・雑修の善」と名づく。
また「虚仮・諂偽の行」と名づく。
「真実の業」と名づけざるなり。
この虚仮・雑毒の善をもって、無量光明土に生まれんと欲する、これ必ず不可なり。(同上)

と言える。

にもかかわらず、凡夫の身の現実に対して分別的理性は、悪なり、非なりと容謝なき批判を加えてくる。
このような虚構の理想に立った独善的現実否定においては、しかし、その根底にある無明性自已の現実相に昏く、善悪に昏いは顧みられることはなく、分別の依って立つ依止そのものは問われることがない。
そのため、自己の内に絶えず善なる部分と悪なる部分が並存し、自己の生全体を絶対的に否定することも、絶対的に肯定することもできない。
そしてまた、否定する自已と否定される自己とは絶えず分裂し、否定し批判する主体は何ら否定も批判も受けることがない。
あたかも不可侵の聖域の如くに存在する。
そしてこれらのことは、仏道修行の上に限ったことではなく、一般の倫理道徳においてもあてはまるのである。

以上のような営み、自己の価値判断に妄執して行なわれる自己否定の行為こそが、実は人間を苦しめ、自己の想いの内に閉塞させ、永続的な流転へと導くのである。
曇鸞は、

衆生、邪見を以ての故に心に分別を生ず。
若しは有、若しは無、若しは非、若しは是、若しは好、若しは醜、若しは善、若しは悪、若しは彼、もしは此、是の如き等の種々の分別有り。
分別を以ての故に長く三有に淪んで、種々の分別の苦・取捨の苦を受けて、長く大夜に寢て出る期有ること無し。(『浄土論註』、『真聖全』1、330頁)

と説き、「出る期有ること無」き衆生の相を

三界は是れ虚偽の相、是れ輪転の相、是れ無窮の相にして、蚇蠖の循環するが如く、蚕繭の自ら縛るが如く(『浄土論註』、『真聖全』1、285頁)

と喩えている。

このような自力分別による永続的な自己閉塞性こそが不実の功徳の文の示す内容であり、衆生が、自らの力によって生死を離れる可能性の全く否定された存在、「いずれの行もおよびがたき身」⑭であることが知れる。
それゆえに衆生は本願の機、法蔵発願の必然的契機であると言えるのである。




曇鸞が、

実相を知る以ての故に、則ち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。
衆生の虚妄なるを知る、則ち真実の慈悲を生ずるなり。
                                (『浄土論註』、『聖典』552頁)

と語ったように、衆生の虚妄の現実を如実知見して、その「いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたもう」⑮たのが如来因位の法蔵菩薩である。
如来は無有出離之縁の衆生を無縁に大悲するがゆえに、因位の菩薩に成り下った。
その「我世において速やかに正覚を成らしめて、もろもろの生死・勤苦の本を抜かしめん」⑯という悲願のゆえに、従巣向因して「設我得仏 十方衆生」と喚び、「若不生者 不取正覚」と誓った。
そこにおいて、如来は衆生の課題をそのまま自己の課題として荷負したのである。

大悲の願心ゆえの修行を親鸞は次のように語っている。

ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。(「信巻」、『聖典』225頁)

そしてさらに法蔵菩薩清浄真心の修行を、より根源的に具体的に、

このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。(「信巻」、『聖典』232頁)

と語っている。

ここで語られる「回向心」とほどんな意味をもつのであろうか。
曾我量深師は回向の意義を、「表現回向」⑰「回向表現の願力」⑱と示唆されている。
この示唆を手掛りとして本願成就の文に対する親鸞の領解を探ると、

「至心回向」というのぱ、「至心」は、真実ということばなり。
真実は阿弥陀如来の御こころなり。
「回向」は本願の名号をもって十方衆生にあたえたまう御のりなり。
                             (『一念多念文意』、『聖典』535頁)

とある。
これによれば回向とは、如来が名号を衆生に施与することをもって、その名号の上に真実なる自己(如来)、清浄なる因位の願心を表現せんとした事実を指す語である。

本願の名号に自己を表現することをもって、如来はその大悲心を成就せんとしたのである。
法蔵菩薩の清浄真心の修行とは、ひとえにこの本願の名号、真実功徳の名号を成就させんがためのものであった。

如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。
如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。
すなわちこれ利他の真心を彰す。
かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。
この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
                                  (「信巻」、『聖典』225頁)

如来は至心をもって修行の果徳である名号を成就し、名号を体(表現態)として衆生に如来の至心を自覚せしめるのである。
その名号とは、

名の字は、因位のときのなを名という。
号の字は、果位のときのなを号という。
                     (『正像末和讃』「自然法爾章」、『聖典』510頁)

と説かれるように、衆生を招喚して「南無阿弥陀仏とたのませたま」⑲う如来因位の本願と「南無阿弥陀仏とたの」む衆生を「むかえんとはからわせたまいたる」⑳摂取不捨なる果位の光明という、名と号の二重の意味を表現するものである。
『教行信証』「総序」に、

竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり。(『聖典』149頁)

と説かれるように、衆生は名号の聞思において如来因位の願心より成就した摂取の心光に値遇し、光明に無明を破られることによって初めて、法蔵菩薩の昔より衆生を招喚し統けた願心を自覚するのである。

この如来の光明との値遇による破無明闇の体験、言い換えれば如来の真実、真実なる如来との値遇の体験が、すなわち「自力の心をひるがえし、すつる」㉑回心である。
虚仮不実なる衆生の真実との値遇は不真実なる自己の発見・如実知見に他ならないがゆえに、回心において衆生は、

煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄の心なし。
濁悪邪見のゆえなり。(『尊号真像銘文』、『聖典』512頁)

という自己の機の事実を自覚し懺悔し得る。
そして機の自覚は同時に、その機を「たすけんとおぼしめしたちける本願」㉒への帰命へと展開する。
ここに邪見・自大の我から「流布語」㉓としての我への依止の転換、すなわち「雑行を棄てて本願に帰す」㉔る回心が成立する。
そしてこの衆生の回心において如来の回向は成就し、回心において初めて回向が存在する。
まことに曾我量深師が「回心は如来の回向」㉕と示唆される所以である。

真実功徳の名号の回向において回心が成立するのは、名号が如来の自己表現なるにとどまらず、さらに根源的に見れば、真如一実なるものの自己限定、絶対無限の相対有限化としての意味をもつからである。
「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず・ことばもたえた」㉖る一如が、衆生の苦悩に応動して「方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御かたち」㉗が、すなわら阿弥陀如来である。
そしてこの如来、前述の通り、「南無阿弥陀仏」の名号においてのみ存在するのである。それゆえ、名号こそ「如より来生」㉘したもの、一如宝海より方便として「衆生にしらしめ」㉙んために「かたちをあらわし、御なをしめし」㉚たものである。
衆生は言説を以って分別し思索し表現する。
言説は人間の精紳活動の唯一の材料であり、それゆえ言説は妄念によって生じて、絶えず妄念に汚染されている。
名号とは、大悲の方便によって、妄念に汚染された俗世の言説の中に身を投じて「言に因りて言を遣る」㉛(言説をもって言説を超えしむる)ところの言説である。
名号を聞くことは、すなわち真如一実の功徳、絶対無限の妙用にふれることであるがゆえに、そこに回心が成立するのである。

回心によりて自力の心をすてることにおいて初めて衆生は如来の本願に値遇できる。
回心以前には、本願を信ずるとは言ってもそれは自力の想いの中で構築され欣慕されたものに過ぎない。
回心における本願との値遇は、その本願に帰する信心の獲得である。
「如来の御ちかいの真実なる」㉜至心に出遇うことは即、「如来の本願、真実にましますを、ふたごころなくふかく信じてうたがわざ」㉝る信楽となる。

すなわち利他回向の至心をもって、信楽の体とするなり。(「信巻」、『聖典』227頁)

あるいは願成就の文を釈して、

「聞其名号」というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。
きくというは、本願をききてうたがうこころなきを「聞」というなり。
また、きくというは信心をあらわす御のりなり。
「信心歓喜 乃至一念」というは、信心は如来の御ちかいをききて、うたがうこころのなきなり。(『一念多念文意』、『聖典』534頁)

と説かれる所以である。
真如一実の功徳によって「うたがうこころ」の依止である自力の心が嶊破されているがゆえに、「聞其名号」に「信心歓喜」が、「信心歓喜」に「聞其名号」が、一念の極促に成り立つのである。

このような回向成就の信心はまた、仏心が凡夫心の上に「回施」されたという意味をも有するのである。

本願成就の信心はまた、一心帰命の信と表現される。

親鸞は、「帰命」を、

帰命は南無なり。
また帰命ともうすは、如来の勅命にしたがうこころなり。
                             (『尊号真像銘文』、『聖典』518頁)
帰命はすなわち釈迦・弥陀二尊の勅命にしたがいて、めしにかなうともうすことばなり。(同上、521頁)

として、如来の勅命に帰する心、すなわち「帰を以て命とす」㉞る心と釈している。
そして更に親鸞は名号釈において帰命を、

帰命は本願招喚の勅命なり、(「行巻」、『聖典』177頁)

と定義している。
ここにおいて信心とは、「如来に帰命せよ」との勅命たる本願の招喚に対する、衆生の「帰命す」との応答であることが知られる。

しかし、この如来の勅命も、衆生の帰命において初めてその存在が証明ざれるのであり、招喚も応答も、いずれも帰命の信にある。
ここにおいて仏と衆生とは、主客間に距離のある二元的なものではなく、仏心と凡心が一如であると表現できる。
換言すれば、如来が凡夫心中に直入して、自らを表現したものが衆生の信心であると言えよう。
それゆえに、

この至心信楽は、(中略)凡夫自力のこころにはあらず。
                             (『尊号真像銘文』、『聖典』512頁)

と説かれる。
「無始より巳来」「無明海に流転し、諸有輪に沈迷し衆苦論に繋縛せられて、清浄の信楽なし。法爾として真実の信楽な」㉟き衆生の上におこった浄信はまさしく「無根の信」㊱であり、衆生の上に発起した心でありながら一つの心理状態ではなく、衆生を超えた心、衆生をして衆生を超えしむる心である。
それゆえ「真実の信心」㊲と形容され絶対の他(如来)から「回施」された「如来の至心」㊳「無碍広大の浄信」㊴「利他真実の欲生心」㊵と実感され崇められずにはいられないのである。




如来の至心回向によって本願の信心(本願力回向成就の信)が成就するという点において「本願信心の願成就の文」

諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん
                              (『大無量寿経』、『聖典』228頁)

の語る事実は、「本願の欲生心成就の文」

至心回向したまえり。
かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと。
唯五逆と誹謗正法とを除く(同上、233頁)

の示す事実をこそ、その根本としていることが知られる。
如来が「至心に回向したまえ」るがゆえに、衆生の信心が成就し、「至心に回向したまえ」るがゆえに、その信心は「かの無得光仏を称念し、信じて安楽国にうまれんとねが」㊶う願生心へと展開していくのである。

「他力の至心信楽のこころをもって、安楽浄土にうまれんとおもえ」㊷という「如来、諸有の群生を招喚したまう」㊸「欲生我国」の勅命は、親鸞によって、

すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。(「信巻」、『聖典』232頁)

あるいは曇鸞によって、

願生安楽国とは、(中略)天親菩薩の帰命の意なり。
                            (『浄土論註』、『真聖全』1、238頁)

と説かれるように、衆生の一心帰命の信をその成立根拠として必然的に展開する一心願生の信において成就する。

そしてこの願生心は、決して穢土の現実を厭うて来生の実在の浄土を欣慕する現実逃避的願生でも、「但だ彼の国土の受楽間なきを聞きて、楽のためのゆえに生まれんと願」㊹ずる欲望充足的願生、いわゆる為楽願生でもなく、欣浄のところに必然に成就する厭穢の心であると言えよう。

曇鸞はこの問題について、自ら問答を立てて論究している。

疑いて言うこころは、生は有の本、衆累の元為り。
生を棄てて生を願ず、生何ぞ尽く可きや。(『浄土論註』、『真聖全』1、327頁)

という問いに対して曇鸞は、

彼の浄土は是れ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。
三有虚妄の生の如きには非ざるなり。(中略)
生と言うは是れ得生の者の情ならく耳。(同上)

と明らかにしている。

ここに語られる願生とは、「即得往生」、すなわち超越的彼岸である浄土の功徳力用の体験を通して現生に「裟婆世界をたちすてて、流転生死をこえはなれてゆきさる」㊺生が成就することを意味している。
このような穢土の業を生きる身における浄土の功徳の体験、すなわち「得生の想」㊻を親鸞は、

光明寺の和尚の『般舟讃』には、「信心の人はその心すでに浄土に居す」と釈し給えり。
居すというは、浄土に、信心の人のこころ、つねにいたりというこころなり。
                          (『御消息集』(善性本)、『聖典』591頁)

と語っている。
ここにおいて「即得往生」は命終の一期に来生の浄土に生まれることが約束されたという意味ではなく、「願生彼国」のゆえに「即得往生」というよりむしろ「即得往生」のゆえに「願生彼国」と言える。
即得往生は願生の利益ではなく、願生の成立根拠である。

この往生の義を曇鸞は、

この間の仮名の人の中において、五念門を修せしむ。
前念と後念と因と作る。
穢土の仮名の人、浄土の仮名の人、決定して一を得ず。
決定し異を得ず。
前心・後心またかくのごとし。
何をもってのゆえに。
もし一ならばすなわち因果なけん。
もし異ならばすなわち相続にあらず。(『浄土論註』、『聖典』169頁)

と説いている。
ここに述べられる穢土の仮名の人とは、因の信心のところに果の浄土を自証している人である。
信心の人は、その「仮名」の語の示すように、穢土において固定的に存在しているのではなく、穢土においてすでに浄土と関係している。
穢土にある身の事実は変わらないながらも、現在の因におい未来の果を先立って体験している。
穢土の仮名の人(十方衆生)は、その体験の事実において浄土の仮名の人(国中人天)と同一であるとも言い得るし、また有漏業所感の穢土を生きる点においては全く別個であるとも言い得る。
両者は穢土と浄土とに隔絶されたものでありながら、完全に無関係ではなく、因果において連続している。

このように信心の上に自証され体験される浄土の功徳とは、『浄土三経往生文類』の「大経往生」に挙げられる四種の功徳((妙声・眷属・大義門・清浄)に代表される。

まず妙声功徳とは、

国土の名字仏事をなす。(『浄土論註』、『聖典』281~2頁)

とあるように、「ひとえにかのくにの清浄安楽なるを聞きて、剋念してうまれんとねがうひとと、またすでに往生をえたるひと」㊼すなわち信心の人に成就する「安楽浄土の不可称・不可説・不可思議の徳」㊽としての入正定聚を示すものである。

「即得往生」は、信心をうればすなわち往生すという。
すなわち往生すというは、不退転に住するをいう。
不退転に住すというは、すなわち正定聚のくらいにさだまるとのたまう御のりなり。
これを「即得往生」とはもうすなり。(『唯信鈔文意』、『聖典』549~50頁)

と説かれるように、親鸞においては「即得往生」イコール「即の時に大乗正定聚の数に入る」㊾ことであり、「かならず無上大涅槃にいたるべき身となる」㊿ことである。
如来清浄願心の回向成就である信心の利益として、滅度に必至する道に衆生が自然に立たしめられることが、この妙声功徳の不可思議なる成就である。

そして妙声功徳成就の正定聚の機の具体的内実を示すものが次の眷属功徳である。

かの安楽国土は、これ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。
同一に念仏して別の道なきさがゆえに。
遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり。
眷属無量なり。(『浄土論註』、『聖典』282頁)

と説かれている眷属功徳の内実は、雑業によって雑生の世界を生きる衆生の上に自証せられる

一切の有情は、みなもって、世々生々の父母兄弟なり。(『歎異抄』、『聖典』628頁)

との智見である。
各別の業によって種々雑多の生き様を呈しつつ排他と迎合とを繰り返す人間関係の中で、その依止である自力分別、他を私有化せんとする自我意識の破綻によって、人は、隣人の上に、ともに「本願力を信楽するをむねとすべ」き存在として「凡夫」の姿を発見する。
そのような発見は同時に、日常性の中で無意識下に隠蔽された「生死をはなれん」51という共通の志願を見出すことであり、ここにおいて他に対して「われら」と呼び掛けることが成り立つのである。
この「われら」の自証に開始されるものが、本願を「自ら信じ人を教えて信せしむ」52る営みすなわち「倶会一処」53への歩みである。
この歩み、すなわち眷属功徳の行証において人はその孤立性を超克し、さらにそこに、

往生を願う者、本はすなわち三三の品なれども、今は一二の殊なし。
                                (『浄土論註』、『聖典』628頁)

とあるような差別を超克した、幻想にあらざる真の意味の平等としての大義門功徳が成就、自証され行証されていくのである。

この眷属功徳の成就は、本願の欲生心成就である「願生彼国」がただ単に自己一人がかの国に生ぜんと願ずるのでなく、「願わくは弥陀仏を見たてまつり、普くもろもろの衆生と共に、安楽国に往生せん」54と願う、すなわち、ともに如来の願力を信楽して、往生浄土する生を歩まんという志願の実践であることを意味する。
そのことが実は法蔵の願心の一翼を荷うことであり、浄土とは実にこの志願の実践、行証のところに存在するのであると言えよう。

そして、この往生浄土の生、すなわち滅度に必至する道程(証道)としての生を総括的に表現するものが「凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生まるることを得れば、……すなわちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得」55るところの浄土の二十九種荘厳の総相、清浄功徳の成就である。
この清浄功徳は、煩悩成就の事実に、それを否定する分別の根本的転換を通して、新しい意味を見出していく転ずることをあらわしている。
煩悩成就の衆生が煩悩を消し失わぬままに、そこに否定的媒介、すなわち如来の本願にめざめるための必要不可欠の契機としての意味を、さらに自己の根源的志願を実践し満足していく場としての意味を人生に発見していくのである。
そしてまた、清浄功徳は、前念命終の本願信受に成り立つ後念即生の即得往生の境地において、教人信の歩みを絶えず自信へと立ち帰らしめる信心の力、信心歓喜してもなお間雑する自力の心、信心をも私有化せんとする我愛我慢を自覚することを通して、信心自身が無限に自己吟昧していく信の自証力を象徴していると見ることもできよう。




以上のような考察から知られるように、衆生の空過の生は、空過を必然させる衆生の依止としての自力分別心が、願力の回向成就である回心において嶊破されることを通して、浄土の功徳を行証する生へと転ぜられるのである。
懺悔されるべき衆生の生死の現実相も、信心の根拠である如来の願心も、そして行証すべき浄土の功徳も、いずれも信心において自覚自証されるものである。
それゆえ衆生は「本願力を信楽す」べき存在であると言える。
このような信心における生の意昧的質的転換をあらわすものが、

本願力にあいぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし(『高僧和讃』「天親讃」、『聖典』490頁)

と和讃される不虚作住持功徳の成就である。
この宝海のごとく信心の人の上に満足せらるる功徳とは、如来の願心を荷った自信教人信の歩みとして行証される浄土の功徳であり、かつまた、大涅槃を超証すぺき道程としての人生、すなわち「無碍の一道」56を成就せしむる真如一実の功徳(功用・功能)であることが知られるのである


①『唯信鈔文意』(『聖典』552頁)
②『大無量寿経』(以下『大経』と略す。『聖典』58頁)
③④⑤『唯信鈔文意』(『聖典』552頁、同左553頁)
⑥『大経』(『聖典』60頁)
⑦『浄土論註」(以下『論註』と略す。『真聖全』1、298頁)
⑧『歎異抄』(『聖典』627頁)
⑨⑩『観経疏』「散善義」(以下「散善義」と略す。『聖典』215頁)
⑪『成唯識論』(『大正新脩大蔵経』32・21頁a~b)
⑫⑬『論註』(『真聖全』1、282頁)
⑭⑮『歎異抄』(『聖典』627頁)
⑯『大経』(『聖典』13頁)
⑰曾我量深『本願の仏地』(『曾我量深選集』5、263頁)
⑱曾我量深「選択批判の願心より回向表現の願力」(『曾我量深選集』4、5頁)
⑲⑳『正像末和讃』「自然法爾章」(『聖典』511頁)
㉑『唯信鈔文意』(『聖典』552頁)
㉒『歎異抄』(『聖典』640頁)
㉓『論註』(『真聖全』1、282頁)
㉔「後序」(『聖典』399頁)
㉕曾我量深『歎異抄聴記』(『曾我量深選集』)6、373頁)
㉖㉗『唯信鈔文意』(『聖典』554頁)
㉘「証巻」(『聖典』280頁)
㉙㉚『一念多念文意』(『聖典』543頁)
㉛『大乗起信論』(『大正新脩大蔵経』32・567頁a)
㉜㉝『尊号真像銘文』(以下『尊号銘文』と略す。『聖典』512頁)
㉞金子大榮『教行信証講読・教行巻』(『金子大榮著作集』6、231頁)
㉟「信巻」(『聖典』227~8頁)
㊱『涅槃経』(『聖典』265頁)
㊲「信巻」(『聖典』235頁)
㊳同上(『聖典』225頁)
㊴同上(『聖典』228頁)
㊵同上(『聖典』232頁)
㊶『尊号銘文』(『聖典』518頁)
㊷同上(『聖典』512頁)
㊸「信巻」(『聖典』232頁)
㊹『論註』(『聖典』237頁)
㊺『尊号銘文』(『聖典』514頁)
㊻「散善義」(『聖典』234頁)
㊼㊽『一念多念文意』(『聖典』546頁)
㊾「証巻」(『聖典』280頁)
㊿『一念多念文意』(『聖典』536頁)
51『歎異抄』(『聖典』632頁)
52『往生礼讃』(『聖典』247頁)
53『阿弥陀経』(『聖典』129頁)
54『浄土論』(『聖典』138頁)
55『論註』(『聖典』283頁)
56『歎異抄』(『聖典』629頁)


(『親鸞教学』第45号(大谷大学真宗学会・1985)掲載の論文を加筆・補訂)


※なお本文中引用の経・論・釈については、大多数『教行信証』所引の文を用いた。 


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