法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
大谷大学大谷学会『大谷学報』第96巻第2号掲載(2017年4月)
 
 
 

「文明版」系『正像末和讃』祖本の成立に関する一考察
                      

豅   弘 信  


    はじめに


筆者は先般来、元久2年(1205)の親鸞の改名について考察を重ね、改名は従来理解されてきたような「綽空」→「善信」ではなく「親鸞」へのそれであり、「善信」は吉水期以来終生用いられた房号である、とする数編の論文を発表してきた。

その考察の過程において筆者は直近に、蓮如によって文明5年(1473)3月に開版された文明開版本『三帖和讃』中の『正像末和讃』(以下、「文明版」)の「愚禿善信集」「愚禿善信作」の撰号に着目し、親鸞が『正像末和讃』を制作したその歴史的思想的背景等を考察し、親鸞没後の正和年間(1312~7)頃に「愚禿善信」の呼称が広く人口に膾炙していたことを示す文書(孤山隠士『愚闇記(愚暗記)』)の存在とも併せて、親鸞が「文明版」系祖本(「文明版」の底本となった写本系統の最初の本)にこれらの撰号を用いる必然性はなく、没後の後代に別人によって挿入されたものであるとの結論を得た。

筆者は考察の成果を拙論「「愚禿善信」考文明版『正像末和讃』の撰号をめぐって」(『親鸞教学』第109号)として発表する予定であるが、考察の過程において「文明版」系祖本の成立過程誰が編集したのか。親鸞自身、あるいは後代の別人による編集かについても一応の私見を得たため、今回これを発表することとした。

なお、執筆にあたっては佐々木瑞雲氏「「文明版」系「正像末和讃」の成立過程〈異本〉の存在証明とその意義」(『真宗研究』第48号、2004年)に多大な恩恵を受けた。

氏は、真宗興正寺派興正寺蔵本・大阪府慈願寺蔵本・龍谷大学蔵本(坂東和讃)の所謂「河州本」系『三帖和讃』写本の検討を通して「「文明版」系祖本は親鸞自身の編集」(親鸞編集説)であるとした。
しかし、氏の論考を精読した結果、筆者は「親鸞没後の別人による編集」(別人編集説)との結論に到った。

「文明版」系祖本の成立過程については残念ながら筆者は氏と見解を異にすることとなったが、本論稿は氏の労苦なくしては成立し得なかった。
論述に先立って氏に対して甚深の謝意を表したい。

 
    1 『正像末和讃』諸本の成立と構成


親鸞制作の『正像末和讃』には以下の代表的な3本が現存している。

康元2年(1257)2月9日の「夢告讃」(同年正嘉元年閏3月1日に書き入れ)を中途に含む全41首からなる専修寺蔵国宝『正像末法和讃』(以下、「草稿本」)
⑵翌正嘉2年(1258)9月24日に脱稿した親鸞真蹟本を、正応3年(1290)9月25日に顕智が書写した専修寺蔵『正像末法和讃』(以下、「顕智本」。これと区別して正嘉2年9月成立の親鸞真蹟本(現存せず)を以下、「顕智本」系祖本と呼ぶ)
⑶ 文明5年3月、蓮如によって開版された文明開版本『正像末和讃』(「文明版」)

以下、3本の構成・特徴を概説すると、

⑴「草稿本」は表紙中央に「正像末法和讃」の外題、左下に「釈覚然」の袖書はあるものの内題・撰号等はなく、各和讃に首数の肩書(以下、肩番)もない。
冒頭の「五十六(オク)七千(マン)……」から「如来大悲ノ恩徳ハ……」までを「已上三十四首」(実際には35首)として記した後、康元2年2月9日夜の「夢の告げ」、所謂「夢告讃」を

康元二歳(ヒノトノ)()二月九日ノ()
(トラノ)(トキニ)(ユメノ)(ツケ)
ニイハク
弥陀ノ本願信スヘシ
本願信スルヒトハ ミナ
摂取不捨ノ利益ニテ
無上覚オハ サトルナリ
コノ和讃ヲ ユメニ オホセヲ
カフリテ ウレシサニ カキ ツケマ
イラセタルナリ
(シヤウ)()(クワン)(子ン)(ヒノトノ)()(ウルウ)三月一日
  愚禿親鸞八十五歳書之

と、同年正嘉元年閏3月1日に書き入れ、以下、「真実信心ノ称名ハ……」から5首を加えている。

第1首から第9首は親鸞真筆であるがそれ以降は別人筆(表紙袖書に名のある覚然の筆とも思われる)
また、第9首までの左訓も別筆。
第9首までは朱筆で圏発(四声点)が記されているが第10首以降にはない。
また第10首以降は右訓(振り仮名)が激減している。

⑵「顕智本」は表紙中央上部に「正像末法和讃」の外題、左下に「釈顕智」の袖書(いずれも顕智筆)の題箋が貼付されており、本文冒頭には『般舟讃』の文が置かれている。

次に「康元二歳丁巳二月九( ノ)( ラノ)(トキ)(ユメノ)(ツケニ)(イハク)」の詞書の後、「夢告讃」。
そして「正像末法和讃」の内題があり、その後58首(結語は「已上正像末之三時/弥陀如来和讃 五十八首」)が続く。

そして、「愚禿(グトク)述懐(シユツクワイ)」の標題から「仏智疑惑讃」22首(結語ハ「已上疑惑罪過二十二首/仏智ウタカフ ツミトカ(罪科)ノ フカキコトヲ/アラハセリ コレヲヘンチ ケマン タイシヤウ(辺地・懈怠・胎生)ナン/トヽイフナリ」)の直後に、

         愚禿親鸞作
愚禿悲歎述懐

との撰号・標題を記した後、「愚禿悲歎述懐讃」11首が続く。
(結語には「已上三十三首/愚禿悲歎述懐」とあり、「疑惑讃」「悲歎述懐讃」の計33首が「愚禿悲歎述懐」と位置付けられていることが知られる)

その「愚禿悲歎述懐」の結語の直後に、

草本云
 正嘉二歳九月廿四日
          親鸞 八十六歳

   正応三年庚寅九月廿五日令書写畢

との奥書があり、さらには『涅槃経』『観念法門』の文が記されて「顕智本」は終わっていく。

「草稿本」に比して「顕智本」は、「正像末法和讃」においてはもちろん、「仏智疑惑讃」「愚禿悲歎述懐讃」が増補され、和讃の数が大幅に増加している。
また、「正像末法和讃」も語句が改訂された上、配置が大幅に入れ替えられている。
例えば「草稿本」第6首は1句目「衆生」を「有情」に、4句目「功徳は信者のみにみてり」を「信者ぞたまわれる」に改めて「顕智本」では第30首目に、第7首は4句目「念仏往生とげやすし」が「念仏往生さかりなり」となって第17首目に置かれている。
また、題号・撰号・奥書・肩番・圏発が施されている。

⑶龍谷大学蔵「文明版」は、表紙左肩に「正像末和讃」の題箋が貼られてあり、本文は1頁に4行ずつ印刷されているが、「顕智本」では冒頭にある『般舟讃』の文が無く、「(カウ)(クヱン)()(サイ)(ヒノトノ)()()(クワチ)(コヽヌ)(カノ)()(トラノ)(トキ)(ユメニ)(ツケテ)(イハク)との「夢告讃」から始まっている。

次に

正像末浄土和讃
      愚禿善信集

の題号・撰号があり、「正像末法和讃」58首(結語は「已上正像末法和讃/五十八首」)が続く。

そして次に「仏智疑惑讃」23首(標題なし。結語は「已上二十三(シウ) (フチ)不思議(フシキ)/ノ弥陀(ミタ)(オン)チカヒヲ ウタ/カフツミ トカヲ シラセン ト/アラハセルナリ」。「顕智本」より1首増補)が続く。

「疑惑讃」結語の後、頁を改め、頁の前半2行分の余白の後、

       愚禿善( ノ)
皇太子聖徳奉讃

の撰号と標題。
その後「皇太子聖徳奉讃」11首(結語は「已上聖徳(シヤウトク)奉讃(ホウサン)/十一首」。「顕智本」には存在しない)

頁初の結語から1行余白を置き、「愚禿(クトク)悲歎(ヒタン)(シユチ)(クワイ)」の標題の後、「愚禿悲歎述懐讃」16首(「顕智本」より5首増補)が記される。
「悲歎述懐讃」の結語「已上十六(シユ) コレハ愚禿(クトク)カ/カナシミ ナケキニ シテ (シユチ)(クワイ)ト シタリ コノ()(ホン)()(ホン)(サム)/ノ イミシキ 僧 トマフスモ 法師 ト マフスモ/ウキコトナリ」の後に一行開けて

(シヤクノ)親鸞(シンラン)(カク)(コレヲ)

の署名があり、次頁から「善光寺如来讃」5首(標題・結語共に無し。「顕智本」には無い)が続く。

続いて次頁初めから、

親鸞(シンラン)八十八歳(ハチシフハチサイ)()(ヒチ)

が記され、「獲得名号自然法爾章」の文、「巻末和讃」2首の後、一頁に

   已上

とのみあって次頁に、

右斯三帖和讃并正信偈
四帖一部者末代為興際
板木開之者也而已
        癸巳
 文明五年三月 日(蓮如花押)

という『三帖和讃』『正信偈』開版の奥付を載せて「文明版」は終わっていく。(1)

「文明版」は「顕智本」に比して「皇太子聖徳奉讃」「善光寺如来讃」「自然法爾章」等の大幅な増補がなされており、既存の和讃においても「仏智疑惑讃」に1首、「愚禿悲歎述懐讃」に5首増補され、「疑惑讃」では「顕智本」の第21・22首が第7・8首目に移動している。
また、「顕智本」の「愚禿親鸞作」「親鸞八十六歳」に比して、所謂撰号・署名に類するものが「愚禿善信集」「愚禿善信作」「釈親鸞書」「親鸞八十八歳御筆」と4箇所存在し、所収の各和讃においても「釈尊かくれましまして」を「釈迦如来かくれましまして」 (「正像末法和讃」第1首) 、「功徳は信者ぞたまわれる」を「功徳は行者の身にみてり(第30首)、「衆生」を「有情」(第37首)とするなど、20数箇所の改訂が行われている。
また、肩番・圏発は付されておらず、「顕智本」に比して左訓が大幅に減少している。


    2 「文明版」系祖本の親鸞編集説・別人編集説


「文明版」に見られるこれらの増補・改訂は、「親鸞八十八歳御筆」の記述から、文応元年(1260)頃、親鸞自身によってなされたものであり、新たに編入された「聖徳奉讃」「善光寺讃」については「十一首の間には連続した関係はなく、互いに独立している感が深い」(「聖徳奉讃」)、「五首ばかりでは部分的で、まとまっているわけではない」(「善光寺讃」)といった問題点はそれぞれあるものの「至極晩年の補訂であると思われるので、なお修正すべき点が残されて、しかもそのままになったものがあるかもしれない」として、この「文明版」が「諸本中最後の本」であり、「顕智本」系本に親鸞自身が増補・改訂を加えた「文明版」系祖本」こそが『正像末和讃』の最終形態である(親鸞編集説)と見做されてきたのである。(以上、宮崎圓遵氏(2))
また多屋頼俊氏によれば、本願寺系では専修寺蔵の「草稿本」に対して「清書本」と言い慣らされてきたと言う。(3)

しかし近年では、

「顕智本」からの増補部分、すなわち「聖徳奉讃」「善光寺讃」「自然法爾章」などは、親鸞の著作であることは認められるが、新たにその位置に挿入しなければならない理由が不明である。
「聖徳奉讃」は全体が一連の主題を持ってまとまったものではなく、それぞれの和讃が独立的である。
また、他の和讃に比して内容的に低調だと評される 「善光寺讃」は、親鸞が書き残した未完の断簡が挿入されたと思われる。(4)
「文明版」には所謂撰号・署名に類するものが「愚禿善信集」、「愚禿善信作」、「釈親鸞書」、「親鸞八十八歳御筆」と4箇所あるが、その表記が「親鸞」「善信」と不統一であり、その記される位置も不自然である。
さらに 「自然法爾章」の前に位置する「親鸞八十八歳御筆」には「……御筆」と明らかに別人による書き込みがある。(5)
「顕智本」は「草本云 正嘉二歳九月廿四日 親鸞八十六歳」という撰述年時を示す奥書を有するが、「文明版」にはそれに該当するものがなく、現存写本も存如期のものを最古とし、 親鸞から年代的隔たりを持つものしかない。(6)

といった理由から、「文明版」系祖本は親鸞以外の別人による編集、つまりは「顕智本」系本に親鸞の書き残した断簡などを後に別人が挿入したと見る別人編集説への支持が多くなっている。

この別人編集説に対して、佐々木瑞雲氏(7)は、前述した「釈尊」→「釈迦如来」、「衆生」→「有情」等の和讃本文の改訂箇所(異文)が「文明版」に見られることから、別人編集説が成立するためには、「顕智本」系祖本が成立した後、「文明版」系祖本が成立するまでの間に、親鸞自身が「顕智本」系に和讃の増補や文言の改訂(標題・結語も含む)を施した〈本文改訂本〉が存在し、それにさらに別人が「聖徳奉讃」「善光寺讃」「自然法爾章」等を増補したという二段階の成立状況が想定されなければならない、とした。

そして、「現存資料からは〈本文改訂本〉はおろか、そうした本が存在したことを示唆する手がかりすらなかった」、すなわち「〈本文改訂本〉の存在を立証できない」という欠点にもかかわらず別人編集説が高く支持されてきた理由は、「現存諸本中、増補箇所には、異文、すなわち親鸞自身による本文改訂の痕跡が存在しない」という点にあり、「もし増補箇所に親鸞自身によって本文改訂されたと判断できる異文を持つ本が存在し、それが「文明版」系の本文の成立に先立つと立証できれば」、「先の〈本文改訂本〉の位置に該当する「文明版」系の構成に近い〝異本〟の存在を現存資料から立証できれば」別人編集説は否定される、とした。

そして佐々木氏は、「河州本」系写本、殊に興正寺本・慈願寺本・坂東和讃の検討を通して、「顕智本」系・「文明版」系他、複数の写本の系統の特徴を併せ持つ「混合本」であるこれら3本には、「顕智本」系にも「文明版」系にも見られない校合箇所や左訓が多数存在することから、『正像末和讃』が「顕智本」系から「文明版」系へと増補・改訂がなされるその中間に、「文明版」系成立の前段階として未発見の〈異本〉が存在したと判断した。

そしてその〈異本〉は、「顕智本」系から増補されて「文明版」系に非常に近い構成を持っており、親鸞自身がその〈異本〉に物部守屋の称号を「大臣(おとど)」から「(おお)(むらじ)」、善光寺の一光三尊阿弥陀如来の伝来した場所を「なにわ(難波)のみやこ(都)」から「なにわのうら(浦)」、「衆生」を「有情」とする等の改訂を加えた、親鸞編集による『正像末和讃』の最終形態としての「文明版」祖本が成立したが、親鸞が最晩年を迎えていたために、「顕智本」系からの増補・本文改訂時に、それまで書きためていた「和讃」をそのままの状態で挿入した際に生じた撰号・署名の不統一・不自然さが訂正されなかった「未完成本」であったと結論づけている。

現存の「文明版」における「撰号・署名の不統一・不自然さ」について佐々木氏は、「愚禿善信」については、「愚禿釈善信」の記載を有する『一念多念分別事』が伝承されているので後世の別人の補筆とは断定できないとしているが筆者はこれを首肯しない。(8)
また、氏は、「自然法爾章」の前の「親鸞八十八歳御筆」の「御筆」は明らかに別人の書き入れであり、「文明版」系に後世の補筆が全くないとは考えていないが、これをもって「自然法爾章」を挿入したのが別人であるという根拠にはならないとしている。


    3  佐々木瑞雲氏説の批判的検討
 
イ 〈異本〉の形状・成立時期について

以上のように佐々木氏は「文明版」系祖本の親鸞編集説を採っている。
しかし筆者は、氏は結論を急ぎ過ぎた、と考えている。

氏は「混合本」である「河州本」系諸本の検討から〈異本〉の存在を想定したのであって、〈異本〉そのものを発見したのではない。
氏は「顕智本」系祖本と「文明版」祖本の間に位置する可能性のある未発見の和讃を発見したのであって、それらが氏の主張するような一冊の〈異本〉を形成していたとは即断できないのではないだろうか。

「河州本」系の祖本は「文明版」系本を底本、「草稿本」系本・「顕智本」系本等を対校本として成立しており、和讃本文・左訓の校合箇所は、「夢告讃」「自然法爾章」「巻末和讃」を除く『正像末和讃』のほとんどに及んでいると言われる。

しかし、だからといって〈異本〉が一冊の冊子だったとは限らない。
例えば各種和讃ごとの分冊状態であったとしたら、それは「河州本」に表記されたであろうか。

佐々木氏に拠れば「河州本」は、『般舟讃』の文、「夢告讃」、「正像末法和讃」58首、「疑惑讃」23首、「聖徳奉讃」11首、「悲歎述懐讃」16首、「善光寺讃」5首、「自然法爾章」、「巻末和讃」2首、「四声点の凡例」から構成されている。

これに較べると「文明版」には『般舟讃』の文、「四声点の凡例」がなく、「顕智本」には「聖徳奉讃」「善光寺讚」「自然法爾章」「巻末和讃」「四声点の凡例」等がないことが知れるが、「河州本」の表記上にはこれらの「……がない」という特徴は現れない。

「河州本」が「……がある」という各系統本の特徴を網羅した「混合本」であるがゆえに、「……がない」という各系統本の特徴は逆に窺い知れなくなるのである。

例えば、「顕智本」のような「疑惑讃」「悲歎述懐讃」を含んだ『正像末法和讃』と、「聖徳奉讃」「善光寺讃」「自然法爾章」(顕智聞書)として各々独立した分冊を集めて対校本とした可能性もあり得るし、さらに言えば分冊ですらなく、一首のみの断簡であった可能性さえ皆無ではないのでなかろうか。

佐々木氏は〈異本〉が一冊の冊子であるという「前提」に立って、「顕智本」系→〈異本〉→「文明版」系という段階的増補・本文改訂をなし得る人物は親鸞以外にないとした。

しかしその「前提」が崩れればどうなるであろうか。

〈異本〉が一冊の冊子ではなく分冊・断簡状態であったとしたら、その次の段階、つまり「大臣」が「大連」、「なにわのみやこ」が「なにわのうら」、「衆生」が「有情」に改められた段階のものも同様に分冊・断簡状態であり、それらが親鸞没後の書写・流伝の過程において「愚禿善信」等の撰号・署名と共に合冊・製本されて現行の「文明版」の祖本となった可能性も出てくるのではないだろうか。

しかもその分冊・断簡状態の〈異本〉は「顕智本」系祖本以前に成立した可能性すらあるのである。

常盤井和子氏に拠れば、専修寺蔵国宝初稿本『浄土和讃』『浄土高僧和讃』成立(宝治2年・1248、親鸞76歳)以後、新たに制作された「別和讃」が断簡・冊子の形態で東国に送られ門弟間で見写・流布され、一方親鸞の手元でそれらがさらに改訂・編集され、それらがまた送られて見写・流布されるという繰り返しの中で、最終的に出来上がったものが「顕智本」だとされている。(9)

佐々木氏が「顕智本」系祖本以降の成立とした〈異本〉とは、「河州本」系祖本の制作時に対校本として集められた「別和讃」、それも「顕智本」系祖本以前に成立流布していたものであった可能性はないのだろうか。


ロ 「皇太子聖徳奉讃」について

「文明版」において増補された「聖徳奉讃」11首であるが、「連続した関係はなく、互いに独立している」(宮崎氏)と指摘されたごとく、各首の配列順序が未整理であるとの印象が否めない。

主題的に見ても、第1、4首が太子の恩徳としての住正定聚、第2、3、6、7首が念仏者への父母のごとき太子の随伴、第5、11首が如来の二種回向への論及、第8首から第10首が太子奉讃の勧めといった具合にバラバラに配置されている。
各和讃は間違いなく親鸞の手になるものであるとしても、親鸞自身による厳密な編集を経ていないのは明らかである。

また、第8、9首目は康元2年(1257、85歳)2月撰述の『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』(以下、『百十四首太子和讃』)の第1、2首目に、第9首は「草稿本」第39首にも収められている。
(「草稿本」第39首の1句目が「上宮太子方便し」であるのに対し「文明版」は「上宮皇子方便し」と改訂されている。
この用語変更については後述する)

多屋頼俊氏は、「十一首としてまとまったものとは思われない」とし、その理由を

⑴第1首は冒頭の和讃として不適当。
⑵第11首は末尾の和讃として不似合い。
⑶類似の語句が多く、太子奉讃の念から繰り返されたとは考えられない。
⑷和讃の順序を変えても意味上には支障が生じない(11首に思想的な統一がないから)
⑸第5首は少しく性質が違うが他はいずれも総括的に太子を讃仰したもので各首独立的性格を有している。

と挙げ、

「(一)この十一首は、一時的に一つの思想体系から作られたものではなくて、一、二首ずつ作られるままに書き留めておかれたものであろう。
そして或いは草稿と精選が共に残っているものがあるかも知れない。
(二)この十一首はこれだけで一連の和讃にせられる目的ではなかったであろう」

と述べ(10)、「疑惑讃」23首と「悲歎述懐讃」16首の間という「文明版」における位置にも疑問を呈している。(11)
(前述したように「顕智本」では「疑惑讃」22首、「悲歎述懐讃」11首の計33首が一連の「愚禿悲歎述懐」と扱われている。)

さて、「河州本」の「聖徳奉讃」校合箇所であるが、佐々木氏に拠れば、「河州本」では第4首

聖徳皇のあはれみて
 仏智不思議の誓願に
 すゝめいれしめたまひてぞ
 住正定聚の身となれる

の1句目「聖徳」に「太子」の注記つまり〈異本〉では1句目が「聖徳太子のあわれみて」であったがあると言う。

「聖徳」の語は「聖徳奉讃」11首中7首に登場するが、「河州本」で校合されているのはこの一箇所のみである。
このことは何を物語っているのであろうか。

仮に校合箇所を一箇所だけ示して後は省略したのであれば、第1首

仏智不思議の誓願の
 聖徳皇のめぐみにて
 正定聚に帰入して
 補処の弥勒のごとくなり

の2句目の「聖徳」に注記が施されるはずである。

だとすれば〈異本〉にはこの第4首目にのみ「聖徳太子」とあって他の6首には「聖徳皇」とあったのだろうか。
むしろ〈異本〉には「聖徳太子のあわれみて」の1首、つまり断簡しかなかったと考えるべきではないだろうか。

建長7年(1255、親鸞83歳)11月撰述の『皇太子聖徳奉讃』(以下、『七十五首太子和讃』)では、太子の呼称は「聖徳太子」「太子」が主に用いられ、この他、「(敬礼)救世観世音伝灯東方粟散王」「八耳皇子」「厩屋戸の皇子」「上宮太子」の別名が挙げられ、「聖徳皇」の用例はない。

2年後の康元2年(1257、85歳)2月撰述の『百十四首太子和讃』では「聖徳皇」「上宮皇子」「太子」「(敬礼)救世観世音大菩薩伝灯東方粟散王」「厩戸豊聡耳の皇子」「聖徳太子」「上宮太子」、同年正嘉元年閏3月1日の日付のある草稿本『正像末和讃』には「大日本国粟散王」「上宮皇」「上宮太子」とあり、この時点では「聖徳太子」と「聖徳皇」、「上宮太子」と「上宮皇子」「上宮皇」が混在している。

これに対して文明版「聖徳奉讃」には「聖徳皇」「上宮皇子」とのみあり、「聖徳太子」「上宮太子」は使われていない。

散文の著作においては、正嘉元年5月書写の『上宮太子御記』に「上宮太子」「太子」「(敬礼)救世観世音伝灯東方粟散王」「厩戸の豊聡耳の皇子」「聖徳太子」、翌正嘉2年(1258、86歳)6月撰述の『尊号真像銘文』(広本)に「皇太子聖徳」「聖徳太子」「上宮太子」「「(敬礼)救世観世音大菩薩伝灯東方粟散王」とあるものの、和讃においては康元2年(改元して正嘉元年)を境に太子の呼称が「聖徳太子」から「聖徳皇」、「上宮太子」から「上宮皇子」へと比重を移していることが窺われるのである。

すでに指摘した通り、『百十四首和讃』冒頭の

和国の教主聖徳皇
 広大恩徳謝しがたし
 一心に帰命したてまつり
 奉讃不退ならしめよ
上宮皇子方便し
 和国の有情をあわれみて
 如来の悲願を弘宣せり
 慶喜奉讃せしむべし

の2首は文明版「聖徳奉讃」の第8・9首にも収められているし、「草稿本」には第38首に

上宮太子方便し
 和国の有情をあわれみて
 如来の悲願弘宣せり
 慶喜奉讃せしむべし

として1句目が「上宮太子」、3句目が「悲願弘宣」となった、『百十四首和讃』第2首とほぼ同文の和讃が収められている。

つまり、佐々木氏の言うような〈異本〉が86歳以降に成立していたのであれば、第4首目もたとえそれ以前の段階で「聖徳太子」であったとしても、〈異本〉成立の段階で改訂され他の和讃同様「聖徳」と記されていなければ不自然なのである。

以上のことから推察するに、1句目に「聖徳太子のあわれみて」とあった旧和讃は「聖徳太子」という呼称が主に用いられていた康元2年以前に制作されたものであり、「文明版」に「聖徳皇」とある7首の内、それ以外の6首はそれ以降、太子の呼称法が「聖徳皇」に比重を移し終えた後に制作され、同じ頃、第4首も「聖徳太子」から「聖徳皇」に改訂されて、「文明版」系祖本成立の際に11首の「聖徳奉讃」として編入された。
そして、「河州本」系祖本が制作される際に改訂前の「聖徳太子」とあった断簡(別和讃)が対校本として用いられた。

こう考えた方が、佐々木氏の言うような〈異本〉に1首だけ「聖徳太子」と記した和讃があってそれを「文明版」系祖本で改訂したと考えるより妥当ではないだろうか。


ハ 「善光寺如来讃」について

同じく増補された「善光寺讃」5首であるが、多屋氏はこれを「首尾も整わず、意味も通じにくいもの」であって「未定稿の断簡」であろうが、「何故三帖の中に入れてあるのであろうか」と疑問を呈している(12)

佐々木氏によれば、第1、第2、第5首が改訂され〈異本〉にあった守屋の称号「大臣」が「大連」に改められ第5首

弓削の守屋の大連
 邪見きはまりなきゆへに
 よろづのものをすゝめんと
 やすくほとけとまふしけり

となったとしている。

これに対して康元2年(85歳)2月成立の『百十四首和讃』では、物部守屋・中臣勝海ら排仏派の奏請・破仏の場面において

弓削の守屋と中臣の
 勝海のむらじともろともに
 皇に奏しまふさしむ
 このくにもとより神をあがむ……
ふたりのひとはいまさらに
 わざわいにあはむと奏せしむ
 守屋の寺をやぶる
 仏経堂塔ほろぼしき

として守屋を「連」と、同年正嘉元年5月書写の『上宮太子御記』の同じ場面では、

大連物部の弓削の守屋と中臣の勝海とともに奏してまふさく。
我国にはもとより神をのみたふとみあがむ。……
しかれども宣旨ありて守屋の大連を寺につかわして、堂塔を破り仏経をやく。

として「大連」と記している。
(『上宮太子御記』には「守屋の」の用例もある)

このことから『善光寺縁起」によって守屋を「大臣」と記した和讃は康元2年より前の制作であることが知られる。
(ちなみに建長7年(83歳)11月成立の『七十五首和讃』では守屋に何の称号も冠せられていない)

「善光寺讃」第1首

善光寺の如来の
 われらをあわれみましまして
 なにわのうらにきたります
 御名をもしらぬ守屋にて

は、改訂前は

善光寺の如来の
 ときの有情をあわれみて
 なにはのみやこにきたります
 ゆげのもりや大臣しらぬゆえ

であったことが佐々木氏によって指摘されているが、「有情」は親鸞が建長7年(83歳)頃から「衆生」に変えて用い出した語であり、改訂前の旧和讃が建長7年以降、康元2年までの間に作られたことが窺われる。

そしてこれらの和讃が「顕智本」系祖本の成立(正嘉2年、86歳)以降まで改訂されずにあったと考えるよりも、やはり85歳頃に改訂され、その後「文明版」系祖本に収められたものを改訂前の旧和讃によって校合したのが「河州本」であると見るのが妥当だと筆者には思われる。

もしこの改訂前の旧和讃が佐々木氏の言う〈異本〉の一部であるならば、85歳時点ですでに正解を知っていながら86歳以降になぜあえて誤った知識に基づいた和讃を作ったのか不可解である。
また誤りと知りながら86歳以降まで改訂していなかったとしても、すでに制作されていながら「顕智本」系祖本に収めずにいた「善光寺讃」をなぜ〈異本〉の時点で新たに『正像末和讃』に組み込んだのか。
これも不可解と言わざるを得ない。

『百十四首和讃』等の記述に照らしてみると、増補部分の内「聖徳奉讃」も「善光寺讃」も改訂前の和讃は「顕智本」系祖本以前にすでに成立しており、改訂も「顕智本」系祖本成立前にすでに行われていた可能性が見受けられるのである。

そして、佐々木氏は、「河州本」の「夢告讃」、そして「聖徳奉讃」「善光寺讃」以外の増補部分である「自然法爾章」「巻末和讃」2首には校合も左訓もなく、〈異本〉に存在したことを証明できない、としている。


ニ  増補部分以外の改訂箇所について

また、佐々木氏に拠れば、これらの増補部分以外に「河州本」では、文明版「正像末法和讃」第3首

正像末の三時には
 弥陀の本願ひろまれり
 像季末法のこの世には
 諸善龍宮にいりたまふ

の3句目「像季末法のこの世には」に「より」、「疑惑讃」第18首

如来慈氏にのたまはく
 疑惑の心をもちながら
 善本修するをたのみにて
 胎生辺地にとゞまれり

の2句目の「疑惑の心をもちながら」に「仏智疑惑の心ながら」、「悲嘆述懐讃」第3首

悪性さらにやめがたし
 こゝろは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆへに
 虚仮の行とぞなづけたる

の4句目の「虚仮の行とぞなづけたる」に「者となづけたり」との注記・校合がなされているが、いずれの和讃も「顕智本」「文明版」は全く同文である。
(「正像末法和讃」第3首は「草稿本」にも同文の和讃(第33首)がある)

佐々木氏は、これらがいずれも「顕智本」系の記述「a」が〈異本〉で「b」に改められ、「文明版」系で再び「a」に戻されたものであるとし、その根拠として『浄土和讃』における専修寺国宝「初稿本」(宝治2年・1248、親鸞76歳)→「顕智本」系祖本(建長7年・1255、83歳)→「文明版」系祖本の変遷においても同様の例が見られ、「文明版」系祖本が「顕智本」系祖本に先行するとする説(13)(後述)を採ったとしても同様の例があるとしている。

しかしその論調から窺うに、佐々木氏は「河州本」の校合箇所が自説(「顕智本」系→〈異本〉→「文明版」系)以外の変遷を示している可能性を当初から排除している。

これらの校合箇所を筆者は、前述した「聖徳奉讃」「善光寺讃」の校合箇所と同様、「草稿本」「顕智本」系祖本以前に成立していた「別和讃」3首が「河州本」系祖本成立の際に対校本として用いられたことを示すものであると考えるが、「顕智本」系からの改訂を示した可能性も皆無ではない。
「草稿本」第10首1句目の「釈迦弥陀の慈悲よりぞ」を「顕智本」第33首で「弥陀釈迦」に改めながら、「文明版」では再び「釈迦弥陀」に戻した例もある。

ただし筆者の考える可能性とは、「顕智本」系祖本成立後に当該箇所を改訂した「別和讃」3首が制作されたものの、その変更が「文明版」系祖本に反映されなかったというケースである。

対校本が一首ごとの断簡(別和讃)である可能性が否定できない以上、既存の『浄土和讃』『正像末和讃』に同様の文言の変遷があるとしても、それらは各和讃ごとの変遷を示すに過ぎず、佐々木氏の言う〈異本〉の存在を証明する根拠とは到底なり得ないのである。


ホ 左訓について

佐々木氏に拠れば、「顕智本」にも「文明版」にもない左訓が「河州本」には9箇所(「正像末法和讃」2箇所、「疑惑讚」3箇所、「悲歎述懐讃」4箇所)あると言う。
(該当する9首の和讃は「草稿本」にはなく、「顕智本」「文明版」いずれも同じ文面で、左訓の施された語句にはいずれもそれ以外の左訓はない)

ただ、これらを検討する前に、左訓を施すという行為自体にいかなる意味があるのかを抑えておきたい。

左訓に関して言えば、「文明版」は「顕智本」に比してかなり少なく、同じ語に施す場合でも「顕智本」をそのまま継承はせず、文言も簡潔になっている。
「顕智本」と「文明版」とで同じ左訓が施されている文言は「疑謗」「等正覚」等わずか4例ほどしかない。

このことが何を物語るかと言えば、親鸞は「顕智本」系祖本に直接改訂・増補を加えて「文明版」系祖本としたのではない、ということではないだろうか。

「顕智本」系祖本は正嘉2年9月下旬に脱稿しており、同年12月に上洛中の顕智が善法坊で「獲得名号自然法爾」の法語を聞書していること、「顕智本」表紙に顕智筆「釈顕智」の袖書がある祖本の表紙には授与先である「釈顕智」の名の袖書が親鸞直筆でなされていたであろうこと、「顕智本」が現在まで専修寺に伝来していることなどから見て、親鸞は直筆の祖本を顕智に付属し、顕智はそれを下野国高田に持ち帰った。
つまり「顕智本」系祖本はそれ以降親鸞の手元になかった、と考えられるのである。

「顕智本」系祖本が手元にない以上、親鸞は別の手稿本によって語句の改訂・和讃の増補を行わなければならなかったはずである。
そしてその手稿本は、「顕智本」系祖本と同じ構成ではあるものの、「顕智本」系祖本に比して左訓が少なく簡略化されており、肩番・圏発も施されておらず、奥書もなかったことが「文明版」の現状から想像される。

常盤井和子氏に拠れば、顕誓『反古裏書』には建長6年(1254、親鸞82歳)12月制作との奥書を持った親鸞真蹟本『浄土和讃』の存在を示唆する記述がある。
また、専修寺には「御真筆本奥( ニ)曰/建長六年甲寅十二月日/( ルニ)( ニ)( ハ)聖人八十二歳製作也」の奥書を持つ江戸期の『浄土和讃』の版本(『高僧和讃』とセット)が現存しており、用語法や左訓、構成等から見て「顕智本」系とは異なり、「文明版」系に属しているという。
これらのことから常盤井氏は、建長6年の親鸞真蹟本が「文明版」系『浄土和讃』『高僧和讃』の祖本であるとしている。

そして常盤井氏は、「初稿本」「顕智本」と「文明版」系諸本とを比較すると、前者が左訓の数も多く内容も懇切丁寧、肩番・圏発があるのに対して、後者は左訓が少なく簡略的で肩番・圏発もないという差異があることを指摘し、その特徴的差異について、前者は門弟の系譜(高田門徒)に伝来したもの、つまり親鸞の手元から離れたものであり、手放すに際して親鸞が懇切な教育的配慮を施したその結果であり、後者は本願寺の伝統の中に伝来してきたもの、つまり親鸞の手元を離れなかったがゆえに前記のような対外的措置が施されなかった結果である、と推測している。(14)

『正像末和讃』の「顕智本」「文明版」においても同様の事情があるのではなかろうか。

「顕智本」系祖本(左訓が懇切で数も膨大、肩番・圏発・奥書あり)が顕智に与えられた折、親鸞の手元にはもう一本の手稿本(左訓が簡潔で数も少ない、肩番・圏発・奥書なし)が残された。
親鸞がその後それに増補・改訂を施したもの、それこそが佐々木の言う〈本人改訂本〉に他ならない、と筆者は考えるのである。

佐々木氏は「現存資料からは〈本文改訂本〉はおろか、そうした本が存在したことを示唆する手がかりすらなかった」と断定したが、筆者からすれば現存の「文明版」の特徴が〈本文改訂本〉の存在を示唆しているのである。
親鸞が生前手元から離さなかった、つまりその没後も外部に出ることなく本願寺に秘蔵されていたとすれば、「文明版」以外の「現存資料からは〈本文改訂本〉はおろか、そうした本が存在したことを示唆する手がかりすらな」いのは当然ではないだろうか。

このように考えると、佐々木氏が指摘した「河州本」の9箇所の左訓についてもそれらが施された理由と時期がおのずと明らかになると思われる。

これらの左訓のうち2箇所は、「悲歎述懐讃」が「顕智本」の11首から「文明版」の16首に増補されたうちの第12首

五濁邪悪のしるしには
 僧ぞ法師といふ御名を
 奴婢僕使となづけてぞ
 いやしきものとさだめたる

の3句目「奴婢僕使」の語に、第15首

末法悪世のかなしみは
 南都北嶺の仏法者の
 輿かく僧達力者法師
 高位をもてなす名としたり

の4句目「高位」の語に施されている。

つまり少なくともこの「悲歎述懐讃」2首に関してだけは、「顕智本」系祖本以降に成立した〈異本〉が存在したことになる。

では他の7首の左訓はいつ施されたのであろうか。
「顕智本」系祖本成立以前の「別和讃」の段階での可能性もないわけではないが、筆者は「顕智本」系祖本が顕智によって持ち帰られた以降に残り7首すべてに左訓が施され、〈本文改訂本〉で増補された6首(「疑惑讃」1首、「悲歎述懐讃」5首)と共に、断簡の形で漸次に、あるいは冊子の形で一時に、東国に送られたと考える。

左訓を新たに施された語句は「久遠劫」「親友」「疑惑」「胎に処する」「奸詐」「無慚無愧」などであり、「文字のこゝろもしらず、あさましき愚痴きわまりなき」「ゐなかのひとびと」に「やすくこゝろへさせむ」ための、「ひとすぢにおろからなるひとびとを、こゝろへやすからむとてしるせる」(以上、『一念多念文意』跋文)左訓である以上、親鸞にしても「顕智本」系祖本をもって事終われりとはいかなかったのではなかろうか。


 「文明版」系祖本の成立時期について


次に親鸞編集説論者が文応元年(1260、親鸞88歳)頃とした「文明版」系祖本の成立時期への疑問を述べたい。

ここで問題となるのは親鸞の健康状態である。

筆者は、本論第二章において別人編集説の論拠である「文明版」の諸問題を挙げたが、このうちの⑴⑵に対して親鸞編集説の論者は、「聖人の至極晩年の補訂であると思われるので、なお修正すべき点が残されて、しかもそのままになった」(宮崎氏)、「親鸞が最晩年を迎えていたために、「顕智本」系からの増補・本文改訂時に、それまで書きためていた「和讃」をそのままの状態で挿入した際に生じた撰号・署名の不統一・不自然さが訂正されなかった」(佐々木氏)とその理由を一様に親鸞の高齢に求めている。

しかし、「顕智本」系祖本が顕智に授けられた正嘉2年(1258)冬から弘長2年(1262)11月28日の親鸞命終まで、改訂・増補、そして整理・修正にほぼ4年間の時間的余裕があったはずである。
しかも、佐々木氏の言うように、「顕智本」系からの増補・本文改訂時に、それまで書きためていた「和讃」(聖徳奉讃・善光寺讃等)をそのままの状態で挿入したとしても、佐々木説に拠れば親鸞はその後、〈異本〉に「増補箇所を含めた本文改訂」を行い、その結果、親鸞本人の編集による「文明版」系祖本が成立したはずである。
つまり佐々木説に従えば、親鸞は〈異本〉に対する改訂等の作業は行いながら、撰号・署名の不統一、不自然さ等はなぜか看過、放置したことになるのである。

また、90歳で没した親鸞にとって88歳は確かに「最晩年」ではあるが、多くの修正点を放置したままにせざるを得ないほど当時の親鸞は「老衰」していたのであろうか。

文応元年の成立と見られる親鸞の著作・書簡は現在3部確認できる。

門弟間で問題となっている十二光仏に関する自著の送付を約束した10月21日付唯信宛「書簡」(『親鸞聖人御消息集』(広本)第17通)
乗信に対して「善信が身には、臨終の善悪をばまふさず……」と自身の現生正定聚の信念を述べた11月13日付「書簡」(『末灯鈔』第6通)
そして、唯信宛「書簡」に執筆中と記した著作と思しき12月2日書写の『弥陀如来名号徳』である。

乗信宛「書簡」に、

なによりも、こぞ・ことし、老少男女おほくのひとびとのしにあひて候らんことこそ、あはれにさふらへ。

とあるように、文応元年は疫病の大流行等によって多くの死者が出ている。

鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』に拠れば、同年6月4日条は、

検断の事に就いて今日定めらるるの條々有り。且つは六波羅に仰せ遣わさるるなり。所謂、……
 一、放免の事
右、殺害人に於いては、日来十一箇年以後所犯の軽重に随いこれを免さるると雖も、今度に於いては、諸国の飢饉と云い人民の病死と云い法に過ぎるの間、別の御計を以て、年記を謂わず、殊なる子細無きの輩は、当年の所犯に至りては、放免せられをはんぬ。

として、先年来の飢饉(正嘉の大飢饉)今年の疫病流行による多数の死者の発生という未曽有の異常事態が続いているので、殺人犯の検断(検察・断罪)については、財産没収の上、死罪もしくは「11年間の流罪の後、犯した行為の軽重に応じて釈放する」のが従来の慣例(15)であったが、今年その罪を犯した者にはそれを適応せず、特別の事情さえなければ逮捕後に審理抜きで放免(釈放)せよ、という布令が全国各地の守護・地頭(京都は六波羅探題府)に対して通達されたことを記している。

鎌倉幕府がこの時行った布告は、「今年に限って」という一定期間のそれも殺人罪にのみ公訴権(公訴を提起し裁判を求める検察官の権能)を停止するという、言わば限定付きの「大赦」であるが、おそらくこれは「大赦」によって神仏の歓心を買いその霊威によって飢饉・疫病の原因である悪鬼悪霊の祟りを鎮めようという宗教的色彩を帯びた施策であろう。

また、6月12日条には、

人庶疾病対治の為祈祷を致すべきの由、今日諸国守護人に仰せらると云々。その御教書に云く、
 諸国の寺社大般若経転読の事
国土安穏疾病対治の為、諸国の寺社に於いて大般若経・最勝・仁王経等を転読せらるべきなり。
早くその国寺社の住僧に仰せ、精誠を致し転読すべきの由、地頭等に相触れしむべきなり。
且つは知行所に於いては、堅固に下知せしむべきの状、仰せに依って執達件の如し。
文応元年六月十二日
                                       武蔵の守
                                       相模の守
某殿

として、「疾病退治のため」疫病流行の終息を願って諸国の寺社に祈祷(『大般若波羅蜜多経』『金光明最勝経』『仁王護国般若波羅蜜多経』等の転読)をさせるよう地頭らを通して通達せしめよと諸国の守護に命じる「将軍御教書」が同日付で発せられた、というこれも非常事態下の幕府の宗教施策を伝えている。

『吾妻鏡』はこの他にもこの年起きた災害を「卯の一点、大地震」(3月25日)、「丑の刻、鎌倉中大焼亡。長楽寺前より亀谷の人屋に至ると云々」(4月29日)、「疾風暴雨洪水、河辺の人屋大底流失す。山崩れ人多く磐石の為圧死せらる」(6月1日)、「晴、甚雨、申の刻大風、人屋多く以て破損す。戌の刻風休む。地震」(8月5日)と記録している。

また特筆すべきは、この年7月16日に日蓮が、正嘉年間以来相次いだ地震・暴風雨・飢饉・疫病などの災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに邪法を信じていることにあると諸宗を非難し、殊に浄土宗の禁圧を幕府に要請した『立正安国論』を元執権北条時頼に提出している。

このように天災が頻発し疫病が大流行する中、88歳の老親鸞は疫病に侵されることなく生き抜き、その年の冬に、同じく非常事態下の東国門弟が発したまさしく命懸けの問いに応えるべく筆を奮っているのである。
(当時の親鸞の肉体・精神がいかに壮健であったかが窺われる)

この親鸞が『正像末和讃』の最終型となるべき「文明版」系祖本の諸問題を修正せず放置したであろうか。
(弘長2年11月11日・12日付の書簡は、死を目前にした親鸞の頭脳がいまだ明晰であったことを物語っている)

もちろん高齢者が急激に体調を崩す例もあり、12月初旬に『弥陀如来名号徳』の書写を終えた際には良好だった健康状態がその後激変し、結果文応元年に編集した祖本の未整理状態がその後2年間、捨て置かれた可能性もないではない。
実際、89歳以降の親鸞の健康状態を窺い知れる史料は存在しない。

ただし、その場合、親鸞が体調を崩したタイミングが、「悲歎述懐讃」の前に位置する「聖徳奉讃」の各首配置の乱れはなぜか後回しにして、「正像末法和讃」「仏智疑惑讃」、「悲歎述懐讃」の改訂・増補・和讃の配列変更を終えたその直後ということになるし、仮にその結果、「聖徳奉讃」以降の撰号・署名の不統一・不自然さが放置されたのだとしても、冒頭の撰号にだけなぜか「愚禿善信」と、他のあらゆる和讃で用いた「愚禿親鸞」の「作」の字ではなく、『顕浄土真実教行証文類』等の経釈文を類聚した著作で用いた「集」の字を使い(16)、しかも修正することなく放置したのか、といった疑問が残るのである。


おわりに


佐々木氏は、「河州本」の校合箇所によって、親鸞自身によって増補部分が改訂された、「顕智本」系祖本と「文明版」系祖本の中間に位置する〈異本〉の存在が証明され、別人編集説は否定されるに至ったとした。

しかし、筆者が佐々木氏の調査報告を精査した結果、導き出された結論は真逆であった。

筆者は、佐々木氏の調査結果は、「顕智本」系祖本と「文明版」系祖本との間に位置する〈本文改訂本〉の存在を必ずしも否定しておらず、「文明版」系祖本の親鸞編集説を証明するものとはなり得ていない。
それどころか、現存する「文明版」系諸本中の増補部分には「顕智本」系祖本以降の親鸞自身による本文改訂の痕跡が存在しない、という佐々木氏が否定したかった別人編集説の根拠を逆に補強する結果すら示している、と考える。

筆者の見解によれば〈異本〉は一冊の冊子ではなく、多くの冊子・断簡の混在である。
そして、その成立時期も佐々木氏が言うような「顕智本」系祖本(親鸞86歳)と「文明版」系祖本88歳頃)との間ではなく、ある部分は「顕智本」系祖本、あるいは「草稿本」(85歳)にすら先行して成立し、ある部分は「顕智本」系祖本以降に成立している。

また、佐々木氏が存在した痕跡すらないとした〈本文改訂本〉は、「顕智本」系祖本が顕智に託された後に親鸞の手元に残されたもう一部の手稿本に親鸞自身が増補・改訂を加えたものであり、現存の「文明版」にこそその痕跡を残していると思われる。。

そして、親鸞没後、本願寺に蔵されていた〈本文改訂本〉にある時期誰かが(おそらくは本願寺に)やはり残されていた断簡状態の和讃・撰号・署名等を挿入して「文明版」系祖本が成立した。

その成立時期は、早ければ覚如が『拾遺古徳伝』で元久2年の親鸞の改名を「善信」とした正安3年(1301)頃、あるいは孤山隠士が『愚闇記(愚暗記)』(17)に「愚禿善信」の呼称を記した正和年間(1312~7)の前後から「河州本」系祖本が成立したとされる室町期(もしくは鎌倉末期・南北朝期)(18)までの間であろう。

そして、室町期(もしくは鎌倉末期・南北朝期)に当時流伝していた「文明版」系本を底本、「草稿本」系本・「顕智本」系本、そして冊子・断簡状態の「別和讃」(改訂以前)等を対校本として混合本「河州本」系祖本が制作された。

以上が「文明版」系「正像末和讃」祖本の成立に関する筆者の推定である。
最後に先学諸兄の忌憚なきご意見ご批判を懇請し、本稿の筆を擱くこととする。

 

(1)「草稿本」「顕智本」「文明版」の表記・構成は『親鸞聖人真蹟集成』3(法蔵館、1974年)、『影印高田古典』2(真宗高田派教学院編、1999年)、インターネット「龍谷大学図書館貴重資料画像データベース/真宗/三帖和讃/第3冊」に拠る。
(2)「正像末和讃私記」(『宮崎圓遵著作集6 真宗書誌学の研究』、思文閣、1988年)、335頁、344頁参照。
(3)「三帖和讃の本文について」(『大谷学報』128、1956年)、20頁参照。
(4)多屋・前掲論文20~3頁参照。
(5)常盤井和子「正像末和讃の成立に関する試論」(『高田学報』70、1981年)、106~115頁参照。
(6)『三帖和讃』の古写本は永享8年(1436)8月の蓮如書写本(西本願寺蔵)、永享9年9月の存如書写本(金沢市専光寺蔵)、文安6年(1449)1月の蓮如書写本(西本願寺蔵)、享徳2年(1453)11月の蓮如書写本(滋賀県円徳寺蔵)等がある。(宮崎前掲書、206、354~5頁参照)
(7)以下、佐々木・前掲論文参照。
(8)豅・前掲論文参照。
(9)常盤井・前掲論文、15~25頁参照。
(10以上、多屋・前掲論文、21頁参照。
(11)同右、22~3頁参照。
(12以上、同右、20頁。
(13)常盤井和子「三帖和讃の諸本について」(『真宗研究』32、1987年)参照。
(14以上、同右、136~50頁参照。)
(15)『御成敗式目(貞永式目)』第10条、他参照。
(16))常盤井「正像末和讃の成立に関する試論」(『高田学報』70)、101頁参照。
(17)「真宗三門徒派略縁起」によれば正和2年(1313)の成立。(『真宗年表』、1985年、法蔵館、参照)
(18)佐々木氏は、現存する「河州本」系『三帖和讃』諸本の書写年代(室町末期)から考えてその祖本は少なくとも室町期には成立し、宮崎円遵氏が指摘した鎌倉末期・南北朝期の断簡の存在(宮崎前掲書、89~90、202頁参照)を考慮に入れると成立年代はさらに遡るとしている。(「「三帖和讃」成立の研究「河州本」の特色について」、『宗学院論集』74、2002年、115頁参照)
これに従えば、「文明版」系の祖本成立が存如期の古写本の書写年代に比べて大幅に遡ることになるが、断簡が「三帖和讃」のどの部分であるか(『正像末和讃』を含むのか)については残念ながら宮崎氏は明記していない。


『大谷学報』第96巻第2号(大谷大学大谷学会・2017)掲載の論文を加筆・補訂)


※文中、文献引用の箇所では読者の便をはかるため、漢文を書き下し文に、旧漢字体を新漢字体に改めた。

   

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