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源空(げんくう)(長慶11(1133)−建暦2(1212)) 美作国久米郡南条稲岡庄(現岡山県久米郡久米南町)の人。父は久米の押領使漆間(うるま)時国、母は秦氏。幼名は勢至丸。その房号によって法然(ほうねん)上人と呼び、その住所に因んで吉水大師、吉水聖人、黒谷上人などとも称する。追諡は十数回に及ぶが、なかでも円光大師、明照大師が知られる。 |
保元元年(1156)嵯峨清涼寺に参篭し、ついで南都に赴き、興福寺蔵俊から法相を学んだ。その後醍醐寺寛雅から三論を、仁和寺景雅から華厳を、中川実範から密教および四分律をうけたと伝える。 承安5年(1175・43歳)、善導の観経疏によって専修念仏(せんじゅねんぶつ)に帰し、叡山を下って西山広谷(元京都府長岡京市粟生)に住したが、やがて東山吉水に移って教えを説き、ひろく貴族・武士・一般庶民の帰依をうけた。門下の高弟には幸西・聖覚・隆寛・弁長・証空・親鸞らがいる。 教勢の盛んになるにつれて南都北嶺の嫉視をうけ、元久元年(1204)には山門衆徒が座主真性に念仏停止(ちょうじ)をせまったので、源空は七箇条制誡(しちかじょうせいかい)を草して難をまぬがれた。翌2年10月には興福寺が念仏禁断の奏状を奉り、ために同3年2月、院宣により弟子の行空・遵西が召し捕えられ、ついに建永2年(1207)2月、専修念仏は禁止されて、源空は土佐に配流された。同年8月赦免されたが、入洛はできず摂津勝尾寺にとどまり、建暦元年11月帰洛して東山大谷の禅房に住した。翌2年正月25日に没する。 著書、選択本願念仏集1巻のほか、無量寿経釈1巻、観無量寿経釈1巻、阿弥陀経釈1巻などがあり、親鸞の編と伝える西方指南抄3巻にはその法語類が収められる。また、望西楼了慧によって遺文が編集され、黒谷上人語灯録(漢語10巻、和語5巻、拾遺3巻)として世に行われる。伝記絵詞もはなはだ多く作られ、室町時代までに書かれたものだけでも、源空上人私日記1巻、本朝祖師伝記絵詞4巻、法然上人行状絵図48巻など10数種をかぞえる。 (『総合仏教大辞典』(法蔵館・1987)「源空」の項より引用) |
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