法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
大谷婦人会機関紙『花すみれ』掲載法話
 
 

危機を転機に
 

   「なぜ」という「問い」。

 先日お勤めしたある葬儀でのことです。
 亡くなったのは産まれたばかりの女の赤ちゃんで、先天性の疾患のために生後数時間の命でした。

 当初「身内だけで」とのお話でしたが、「せめて見送りを」とご両親の友人が大勢集まられ、葬儀、荼毘(火葬)、初七日法要と続きました。

 初七日のお勤めの後、憔悴したご様子のご遺族の前でお話をさせていただきました。

 あらためてお悔やみを申し上げた後、私はこう切り出しました。

「今皆さんの胸中を駆け巡っているのはおそらく『なぜこの児(こ)がこんな目に…』、『なぜ数時間しか…」という思いではありませんか。」

こうお尋ねした時、その場におられた皆さんが「その通りです」と頷かれました。

「いったいなぜ」「どうしてこんなことに…」

 釈尊の面前で韋提希夫人が発した

「我、宿(むかし)何の罪ありてか、この悪子を生ずる。
 世尊、また何等の因縁ましましてか、提婆達多と共に眷属たる。」
                                            (『観無量寿経』)

の語を待つまでもなく、有史以来どれだけの人が、突如自身を襲った過酷な出来事に、「理不尽だ」と嘆きながら、この言葉を口にしたでしょう。
一人の人の人生、他ならぬこの私自身を振り返ってみても、いったい何度この言葉を繰り返したことでしょう。

 ご遺族の反応を見、「さもありなん」との思いを新たにしながら、私はこう続けました。

「でもこの『なぜ』という問いに決まった答えはないのです。
 これから皆さんが見つけていかなければならないのです。
 『運命』とか『寿命』とかいう言葉で『仕方がない』『あきらめなければいけない』と自分に言い聞かせてみても、納得などできるはずがありません。
 これからの皆さんがどういう生き方をするかということを通して、その『答え』を出していかなければならないのです。」


   生き方で「答え」を出す。

 この言葉に続いて私は、外国のある孤児院を支援しておられる一人のお母さんの話を紹介しました。

 その方は、息子さんを3歳の時に事故で亡くされ、自殺を考えるほどの苦しみの中で、まるで亡くなった息子さんにいざな)われるかのようにその活動を始められたのだそうです。
 そのお母さんにとって、孤児たちを支援することは、まさしく息子さんが与えてくれた仕事、新しい生き方だったのです。


「その活動に懸命に取り組むことを通して、その方は息子さんと一緒に生きていこうとされているのではないか。
 亡くなった息子さんを自分の胸の中で生かし続けるために、3年しか生きられなかった息子さんの人生が決して無駄ではなかったことを証明するために、言い換えるならば、このお母さんは「なぜこの子は…」という「問い」に自らの新しい生き方を通して「答え」を出していこうとされたのではないでしょうか 」と。

 話の意図がうまく伝わるか、誤って受け取られないか、正直恐る恐る話していたのですが、幸い皆さん真剣に、特に赤ちゃんのお母さんが真っ直ぐにこちらを見て聞いていて下さったので、それに勇気づけられながら話を続けました。

 赤ちゃんのお父さんは学校の教員でしたので、次のようにもお話しました。

「今回の出来事で、命がどれほど脆く儚く、そしてかけがえのないものであるかを知られたと思います。
 また、多くの方々がお子さんの死を深く悲しみ、同時にあなた方のことを心配しておられました。
 命というのはポツンとただ一つ孤立して在るのではなく、人々の思いの中、響き合う思いの中に在るものです。
 どうか生徒たちに、知識だけでなく、こういった命の事実をも伝えてあげて下さい。」

そして最後に、

「繰り返しになりますが、わずか数時間のお嬢さんの人生が、死が無駄ではなかったことを証明していく責任があなた方ご両親にはあります。
またそれができるのはあなた方だけなのですよ。

ただし、『今すぐに』とか『泣くな』とかは申しません。
泣くだけ泣いて、涙が止まったら歩き始めて下さい。」

と申し上げて話を終えました。


   「我以外皆師也」(吉川英治)

 自動車で葬儀場を後にする私をご両親が見送って下さいました。
 斎場で滂沱の涙を流しておられた顔はもうそこにはありませんでした。
 その目に何かしらの「決意」を感じたのは私の欲目だったかもしれませんが…。

 作家吉川英治に「我以外皆師なり」という言葉があります。
人はあらゆる人あらゆる出来事から何かしら学べるし、学ぼうとしなければならない、という意味です。

 待望の愛娘を喪ったご両親の悲しみが簡単に癒えるはずはありません。

 でもこの出来事を通してご両親が何かを学び、これまでの人生を問い直し、新しい生き方を始めることができたとしたら、この赤ちゃんはご両親に身(死)をもってそれを教えてくれたかけがえのない師(善知識(ぜんちしき))となるのではないでしょうか。

 あらゆる人あらゆる出来事から学び、「危機」を「転機」としていく。
 それが、親鸞聖人が、いたずらに死や不幸に怯えそれを忌避して生きる生き方にえらんで、「むなしく生死(しょうじ)にとどまる」ことのない「無碍むげ)の一道」として私たちに教えて下さった生き方なのではないでしょうか。

(大谷婦人会『花すみれ』2009年12月号掲載)


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