![]() |
![]() |
![]() |
|
命わがものにあらず この度このような形で突然にお身内を亡くされた御遺族のご心中は察するに余りあります。 『平家物語』冒頭の
の一節を待つまでもなく、「諸行無常」という語は日本人ならば誰もがどこかで耳にしたことがあると思います。
というその意〈こころ〉はよくご存じではないでしょうか。 ただそれが、今回のような形でわが身に振りかかってきた時、
という古歌のごとく、私たちの心は乱れ、時に非常な苦しみを味わわなくてはなりません。 ただ、ここで皆様にあえて申し上げねばならないことがあります。 「諸行無常」とは釈尊(お釈迦様)の教えにその起源を持つ語ですが、釈尊はこの「諸行無常」という言葉で、「所詮人生は悲しく虚しい」といたずらに人生を嘆いておられるわけではありません。 釈尊は「三法印」〈さんぽういん〉を説かれました。 三法印とは「仏法の三つの旗印」という意味ですが、第1がこの「諸行無常」。第2が「一切皆苦〈いっさいかいく〉」。そして第3が「諸法非我〈しょほうひが〉」です。 では、なぜ人生が思い通りにいかないかと言えば、この世のすべては「非我(我ならざるもの)」だからである、と釈尊はお説きになるのです。 「我〈が〉」とはいろいろな意味を含んだ言葉ですが、ここでは「我がもの(私の所有物)」という意味です。 つまり、「諸法非我」とは、この世の中に「自分のもの」だと言えるものは何一つない。 私の身体や命が本当に自分のものならば、それは私の自由になるはずなのです。 自分の好きな時代、好きな場所に好きな性別で生まれ、好きなように生き、好きな時、好きなような形で一生を終っていくことができるはずです。 しかし、「事実」はそうではありません。 その証拠に、生まれたその時から、私たちは自分の選びに先立って身体と心、そして環境を与えられ、心ならずも老い、病み、そして思いもかけない形で死を迎えます。(ある人は「もっともっと、一日でも長く」と思いながら、ある人は逆に「これ以上まだ生きねばならないのか」と思いながら) なぜなら「私の命」(具体的には身体と心)は実は「私の命ではない」からなのです。 事実は、命そのものの営みに支えられて、生かされて生きているにもかかわらず、私たちは普段「自分が生きている」「自分の力で生きている」と考え暮らしています。 どなたかが
とおっしゃっていました。 本来自分のものでない命を、不可思議にも、私たちはたまたま自分の命として与えられたのです。賜ったのです。 昔、赤ん坊は「授かりもの」と呼ばれていました。 たまたま授かった赤子だからこそ皆で大切に育てていこう。この言葉にはそんな誓いと生命の不思議への畏敬の念が込められていたように思います。(ところが、今は子供は「作るもの」だそうですが) 同様に、たまたま与えられたものであるからこそ、私たちは人生を精一杯に生き、その命を充分に燃やし尽くしていかねばならないのではないでしょうか。 作家の辻邦生氏は、
とおっしゃったそうです。 この度亡くなられた◯◯様は、その突然の死をもって、残された私たちに人生の無常を教えるとともに、限りある生を慈しんで生きよと呼びかけて下さっているのではないでしょうか。 ただ問題は、人生を本当に慈しむ生き方とはどのようなものであるのか、私たちがよく知らないというところにあるのではないでしょうか。 人生とは言わば自分自身の人生を本当に慈しむ生き方、言葉を換えれば、賜った命を「完全燃焼」(金子大榮)する道を求めての試行錯誤の場であると言えます。 親鸞聖人を始めとする多くの先輩方はその道を「本願念仏の仏道」「往生浄土の道」として明らかにして下さいました。 その伝統のもと、私たちが浄土真宗の門徒としてこうして御本尊(阿弥陀如来のご尊形〈そんぎょう〉、あるいは「南無阿弥陀仏」の名号〈みょうごう〉)の前で故人の葬儀を営むということ自体が、もしかしたら「ここに道あり」という亡き人からの促しであるのかも知れません。 (『真宗不遇死葬儀法要法話実践講座』(四季社・2004年2月刊)
|
Copyright(C) 2001.Sainenji All Rights Reserved.