法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
お通夜法話1(2004年3月)
 
 

命わがものにあらず

 この度このような形で突然にお身内を亡くされた御遺族のご心中は察するに余りあります。
 ご自分たちの身の上に起きた出来事の余りの大きさに、「悲しさ」よりも「驚き」の方が先に立って、何をどう考えたらよいのか正直よくわからないというのが現在のご心境ではないでしょうか。

 『平家物語』冒頭の

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常〈しょぎょうむじょう〉の響きあり」

の一節を待つまでもなく、「諸行無常」という語は日本人ならば誰もがどこかで耳にしたことがあると思います。
 たとえ言葉自体は知らなくても、

「形あるものは必ず滅び、出逢った者はいつか別れる。
この世に永遠に続くものはない」

というその意〈こころ〉はよくご存じではないでしょうか。

 ただそれが、今回のような形でわが身に振りかかってきた時、

「ついにゆく 道とはかねて きゝしかど
   きのう今日とは おもはざりしを」(在原業平『伊勢物語』)

という古歌のごとく、私たちの心は乱れ、時に非常な苦しみを味わわなくてはなりません。

 ただ、ここで皆様にあえて申し上げねばならないことがあります。

 「諸行無常」とは釈尊(お釈迦様)の教えにその起源を持つ語ですが、釈尊はこの「諸行無常」という言葉で、「所詮人生は悲しく虚しい」といたずらに人生を嘆いておられるわけではありません。
 むしろ無常の現実を直視して、私たちが見失っている大事な事柄に目を開けとおっしゃっているのではないでしょうか。

 釈尊は「三法印」〈さんぽういん〉を説かれました。

 三法印とは「仏法の三つの旗印」という意味ですが、第1がこの「諸行無常」。第2が「一切皆苦〈いっさいかいく〉」。そして第3が「諸法非我〈しょほうひが〉」です。
 この世は無常であり、それゆえに人は生きることに苦しまなければならない。(この場合の「苦」とは、「思い通りにならない」という意味です。)

 では、なぜ人生が思い通りにいかないかと言えば、この世のすべては「非我(我ならざるもの)」だからである、と釈尊はお説きになるのです。

 「我〈が〉」とはいろいろな意味を含んだ言葉ですが、ここでは「我がもの(私の所有物)」という意味です。

 つまり、「諸法非我」とは、この世の中に「自分のもの」だと言えるものは何一つない。
 財産も家族も、さらには自分の身体も心も、命そのものも、実は自分のものではないのだということです。

 私の身体や命が本当に自分のものならば、それは私の自由になるはずなのです。

 自分の好きな時代、好きな場所に好きな性別で生まれ、好きなように生き、好きな時、好きなような形で一生を終っていくことができるはずです。

 しかし、「事実」はそうではありません。

 その証拠に、生まれたその時から、私たちは自分の選びに先立って身体と心、そして環境を与えられ、心ならずも老い、病み、そして思いもかけない形で死を迎えます。(ある人は「もっともっと、一日でも長く」と思いながら、ある人は逆に「これ以上まだ生きねばならないのか」と思いながら)

 なぜなら「私の命」(具体的には身体と心)は実は「私の命ではない」からなのです。

 事実は、命そのものの営みに支えられて、生かされて生きているにもかかわらず、私たちは普段「自分が生きている」「自分の力で生きている」と考え暮らしています。
 自らが生きて在〈あ〉ることを当然のこととし、本来自分のものでない命を自由にできる、自由にして良いものだと思いながら。

 どなたかが

「自殺は最大の傲慢である」

とおっしゃっていました。
 その意味はおわかりでしょう。
 自らの命を自らの手で絶つという行為自体が、そもそも命が自分の所有物であるという前提のもとでしか成り立たない行為だからです。

 本来自分のものでない命を、不可思議にも、私たちはたまたま自分の命として与えられたのです。賜ったのです。

 昔、赤ん坊は「授かりもの」と呼ばれていました。

 たまたま授かった赤子だからこそ皆で大切に育てていこう。この言葉にはそんな誓いと生命の不思議への畏敬の念が込められていたように思います。(ところが、今は子供は「作るもの」だそうですが)

 同様に、たまたま与えられたものであるからこそ、私たちは人生を精一杯に生き、その命を充分に燃やし尽くしていかねばならないのではないでしょうか。

 作家の辻邦生氏は、

「〈生きる〉とは、地上に在る生の短かさをつくづく思い知って、抱きしめるように慈しむことだ」

とおっしゃったそうです。

 この度亡くなられた◯◯様は、その突然の死をもって、残された私たちに人生の無常を教えるとともに、限りある生を慈しんで生きよと呼びかけて下さっているのではないでしょうか。

 ただ問題は、人生を本当に慈しむ生き方とはどのようなものであるのか、私たちがよく知らないというところにあるのではないでしょうか。
 それはむしろ私たち一人一人が◯◯様から投げかけられた重たい宿題なのかも知れません。

 人生とは言わば自分自身の人生を本当に慈しむ生き方、言葉を換えれば、賜った命を「完全燃焼」(金子大榮)する道を求めての試行錯誤の場であると言えます。

 親鸞聖人を始めとする多くの先輩方はその道を「本願念仏の仏道」「往生浄土の道」として明らかにして下さいました。

 その伝統のもと、私たちが浄土真宗の門徒としてこうして御本尊(阿弥陀如来のご尊形〈そんぎょう〉、あるいは「南無阿弥陀仏」の名号〈みょうごう〉)の前で故人の葬儀を営むということ自体が、もしかしたら「ここに道あり」という亡き人からの促しであるのかも知れません。

(『真宗不遇死葬儀法要法話実践講座』(四季社・2004年2月刊)
掲載原稿に加筆訂正)

【注記】

 この法話中、私は「三法印」を「諸行無常」、「一切皆苦」、そして「諸法非我」と紹介しています。

 「三法印」は一般的には「諸行無常」、「一切皆苦」、そして「諸法無我」として解説されています。(これに「涅槃寂静〈ねはんじゃくじょう〉」を加えて四法印とも言います)

 「無我」、もしくは「非我」と説かれるこの「我」の語(原語アートマン)は古来から、常(常住)・一(独立)・主(所有)・宰(支配)の4義をもって解説され、釈尊在世当時の古代インド哲学(ウパニシャッド)では、人間存在には「我」=その本質をなす永遠不変の実体(例えば霊魂)があると説かれ、それと宇宙の根本原理(ブラフマン)と一体となること(梵我一如)が究極の目的であるとされていました。

 そして釈尊は、それに対する批判、「我」が実在するという『有我説』への批判として「あらゆる存在には我はない」という『無我説』を説かれたのであるとして、「非我」(原語アナッタン)の語は「無我」と翻訳され長くその語が用いられてきました。

 しかし、昨今の研究では、『無我説』が展開するのはむしろ後代、仏教が形而上学化してからのことであり、釈尊自身はその実践的課題から「これは私である(我執)、これは私のものである(我所執)と握りしめる執著〈しゅうじゃく〉から離れよ」という教えをこそ繰り返し説かれており、「無我」とは「我がない」というよりも「我(としてとらえられるもの)ではない」という意味、「我がない」ではなく「我ではない」という意味であって、「無我」よりも「非我」の語の方がより適切であるとしてこの語を用いる研究者も多いとのことです。
  (奈良康明『NHKライブラリー原始仏典の世界』(日本放送出版協会)・1998参照)

 今回、私は法話の趣旨にのっとり「諸法非我」の語を用いさせていだだきました。


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