法話ライブラリー   真宗大谷派 西念寺
 
修正会法話(2002年1月1日(火))
 
 

年頭にあたって

 新年明けましておめでとうございます。

 最近「法話」等でよく取り上げている童謡詩人金子みすゞさんに「星とたんぽぽ」という詩があります。

    星とたんぽぽ

 青いお空のそこふかく、
 海の小石のそのように、
 夜がくるまでしずんでる、
 昼のお星はめにみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。

 ちってすがれたたんぽぽの
 かわらのすきに、だァまって、
 春がくるまでかくれてる、
 つよいその根は目に見えぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。(金子みすゞ)

 みすゞさんが星とたんぽぽに託して語ろうとしたこの詩の力点は、おそらく最後の2行、「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」にあると思われますが、この「見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」を読んだ時、私は実はもう1つのある言葉を思い出したのです。

 それはフランスの作家サン=テグジュペリ(1900〜1944)の童話『星の王子さま』の中に何度か現れる「大切なことは目に見えない」という1節でした。

「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」
そして、いま、こうして目の前に見ているのは、人間の外がわだけだ、いちばんたいせつなものは、目に見えないのだ……と思っていました。
「大切なことはね、目に見えないんだよ……」

 この2つをつなげると、こうなります。

本当に大切なことは目には見えない。
けれど見えないからといって無いのではない。
見えないけれども確かにある。

 その「目には見えない大切なもの」を見失って、見えないものは無いものだと早合点して、私たち日本人、殊に戦後の日本人は「目に見える幸せ」=モノ・カネばかりを追い求めてきたのではないでしょうか。
 お金やモノが大切でないとは言いませんが、「それも大切」というのと「それしかない」「それだけが一番」というのとは大きな違いがあります。
 「目に見えるもの」だけを幸せの尺度にして競争に明け暮れたその結果が、現今の日本人の、見るも無惨な倫理崩壊(モラル・ハザード)状態ではないでしょうか。

 金子みすゞさんは満26歳の若さで自らの命を絶ちますが、その前日に記された前夫宛てへの遺書の中には、

「あなたがふうちゃん(一人娘ふさえさん)に与えられるものはお金であって、心の糧ではありません。私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。」

という実に厳しい一言があります。
 けれどこの言葉は、もしかすると70年後の私たちに対してもまた、投げかけられているのかも知れません。

「あなたが自分の子供に与えられるのは、もしかしたらお金やモノだけしかないんじゃありませんか?」
「それ以外になにか、自信をもって与えられるものがありますか?」

 自分が自分の子や孫、後に続く者に何を与えることができるのか?
 それはひとえに、今の自分が何を「本当に大切なもの」として生きているか、にかかっているのではないでしょうか。
 「本当に大切なもの」、それは言葉をかえれば「本当に尊いもの、尊むべきもの」(本尊)になります。

 「子は親の背中を見て育つ」と言います。
 それでは私たちはどんな背中を子供に、後に続く者に見せているのか?
 もう1回問い直してみる必要がありはしないでしょうか。

(2002年元旦未明、「修正会」法話の要旨)

〔参考文献〕
『金子みすゞ童謡集 私と小鳥とすずと』(JULA出版局・1984)
矢崎節夫『童謡詩人金子みすゞの生涯』(JULA出版局・1993)
サン=テグジュペリ作・内藤濯訳『星の王子さま』(岩波書店・1953)


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